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【深読み「鎌倉殿の13人」】コミカルな演技が光る北条時政とは、どんな人だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北条時政は、どんな人物だったのか。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 1月9日、待望の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がようやくはじまった。

 気になるのは、コミカルな演技を披露した坂東彌十郎さんが演じる北条時政である。時政は、どういう人物だったのだろうか。

■北条時政とは

 保延4年(1138)、時政は伊豆の在庁官人・北条時方の子として誕生した。在庁官人とは、国衙で実務を担当した地方官僚である。

 北条氏は平貞盛の子孫といわれており、子孫の時方(または時家)が伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)に本拠を定め、北条を称したといわれている。

 ところが、時政より以前の人物については、その動向をうかがい知る史料がなく、いくつか残る系図の記載も一致しない点が多い。つまり、北条氏は謎の一族だったといえる。

 さらに言うならば、時政の前半生も不明である。『吾妻鏡』によると、時政は「北条四郎」と記されており、無位無官だった。ただ、「当国(伊豆国)の豪傑」と称されていた。

 静岡県伊豆の国市の北条氏邸跡(円成寺跡)を発掘した結果、大量の出土物が確認された。当時は無名だったかもしれないが、侮れない勢力であった。

 時政は、多くの子供に恵まれた。ドラマのなかでは、宗時、義時、政子が出演していた。ほかには、時房、政範という男子がおり、女子も多数もうけて諸豪族の妻として送り込んだ。

■頼朝との関係

 時政に転機が訪れたのは、永暦元年(1160)に源頼朝が伊豆国に流人として流されたことだった。時政は、伊東祐親らとともに、頼朝を監視することになった。

 ところで、時政の妻は祐親の娘だったといわれている。その後、後妻として迎えたのが牧の方だった。牧の方の父は牧宗親で、駿河国大岡牧(静岡県沼津市)を知行していた。

 それだけでなく、宗親は平頼盛(清盛の弟)に長く仕えていた。当時、婚姻関係が同盟を意味するのだから、時政が平氏方に通じようとしていたのは明らかだ。

 当時の平氏は、飛ぶ鳥を落とすような勢いだったのは、もちろんいうまでもない。

 ところが、頼朝はあろうことか、祐親の娘と結ばれたのだから、事態は最悪だった。祐親は頼朝の殺害を計画するが、これは失敗に終わる。

 加えて時政を驚かせたのは、娘の政子が頼朝と結ばれたことだった。

 ちょうど時政が京都大番役を務めていたときで、治承元年(1177)頃の出来事と考えられている。2人の間に誕生したのが大姫だった。

 時政にとって、政子が頼朝と結ばれたことは、平氏との関係を考えると決して喜ばしいことではなかった。むろん、この段階で頼朝が将来、平氏を打倒することなんかわからない。

 結果として、時政は頼朝を全面的にバックアップした。治承4年(1180)4月、以仁王の令旨に応じて、頼朝は平氏打倒の兵を挙げると、時政も支援したのである。

 時政は以後も登場するだろうから、今日はこのあたりで止めておこう。 

■むすび

 歴史を結果論で考えると、時政には先見の明があったといえるかもしれない。しかし、現実の時政は悩みに悩んだ末、頼朝を支える決心をしたに違いない。まさしく、決死の覚悟だった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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