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【「鬼滅の刃」を読む】江戸時代の吉原の遊女は、どんな1日を過ごしたのか(前編)

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
吉原遊郭の名残である見返り柳。(写真:イメージマート)

 「鬼滅の刃」遊郭編は、煌びやかな遊郭の情景を描いている。「遊郭編」の予備知識として、吉原の遊女はどんな1日を過ごしたのか紹介することにしよう。今回は前編である(後編はこちら)。

■どんな女性が遊女になったのか

 多くの場合は、親が借金苦のため、幼い頃に妓楼に売られた。

 おおむね農村などの貧しい家庭の親、貧しい下級武士の親、不況や事業の失敗などで没落した商家の親などだろう。若い娘が悪い男に騙され、売られることもあった。

 農村の場合は3~5両(約40~65万円)、下級武士の場合は18両(約234万円)で娘を売ったという記録が残っている。

 妓楼(遊女屋)は親に金を渡すが、返済義務は売られた子にあった。だいたい19才前後である。

 花魁になるための子は禿(かむろ)と言われ、妓楼で雑用をこなしながら、芸事を学び修行を行った。

 禿は16・6才頃になると、「留袖新造」と「振袖新造」に振り分けられる。

 「留袖新造」は才能がないため、花魁への道を諦めなくてならなかった。一方の「振袖新造」は、将来の有力な花魁候補となった。ここが運命の分かれ道である。

 新造はお客をとる前、水揚げ(初体験)という儀式を行わねばならなかった。新造の相手は中年の金持ちの男性が多く、妓楼が依頼した。

 その多くは性行為に長けていたので、新造が性行為に恐怖心や嫌悪感を抱くことは少なかったという。こうして水揚げを終えた新造は1人前の遊女となり、毎日、客の相手をすることになった。

■吉原の遊女の1日〔夕刻まで〕

 遊女と一夜を過ごした客が帰る時間は、朝の6時頃である。この時間には、吉原唯一の出入り口である大門の木戸も開いた。

 遊女たちは客が目覚めると帰り支度を手伝い、階段のところまで見送った。

 客が帰ったあと、遊女たちは部屋に戻り二度寝の床につく。

 高級遊女は個室があったが、下級遊女や禿という見習いの少女は、大部屋で雑魚寝だった。二度寝から覚める時間は、午前10時頃である。

 遊女は、起きると朝風呂に入った。吉原の妓楼には内湯があったが、湯屋(銭湯)を利用する遊女もいた。ちなみに、洗髪は月に1回だけだったという。

 入浴後、遊女は遅めの朝食を摂った。高級遊女は自室だったが、下級遊女や禿は広間で食事を摂った。

 食事は質素で、白米、お味噌汁、漬物くらいだった。朝食後、身支度を整えて昼見世に備えた。

 昼見世とは遊女が昼過ぎから夕方まで客を引くことで、夕方の門限の厳しい武士が目当てだった。その時間帯は、正午頃から午後4時くらいまでである。

 その後、午後6時頃までは休憩時間で、食事を摂ることもあった。

 午後6時頃になると、妓楼に灯りがつき、いよいよ吉原が活気づく。各妓楼では、清掻という三味線によるお囃子が弾き鳴らされると、夜見世が開始される。

(続く・明日掲載)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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