【戦国こぼれ話】若き織田信長は、とても天下を狙う余裕がなかった。3つの事件から真相を探る
今年は衆議院選挙が行われ、世襲議員の中からも落選者が出た。世の中は甘くない。ところで、若き織田信長は戦いに次ぐ戦いで、とても天下を狙う余裕がなかったことは、ご存じだろうか。
■坂井大膳の反逆
織田信秀の没後、織田信長は家督を継承。相前後して主家の清須守護代家の織田達勝も亡くなったが、やがて清須守護代家の老臣の坂井大膳ら清須衆が中心となり、信長に対抗した。
天文21年(1552)8月、坂井大膳らが挙兵すると、信長は叔父・信光と協力し勝利した。翌年7月、坂井大膳らは、尾張守護の斯波義統を暗殺。
これを知った義統の子息・岩竜丸(のちの義銀)は、信長の居城・那古野城に駆け込み、庇護された。
信長は形式的な存在とはいえ、守護の流れを汲む斯波氏を戴き、権威を保持することになったのだ。
天文22年(1553)7月、柴田勝家が清須城を攻撃すると、大膳は敗北し、重臣の多くを失った。
大膳は危機に陥ったが、翌年4月、信長の叔父・信光を味方に誘い入れて逆転を狙った。
信光への条件は清須守護代として迎え、尾張下半国の二郡を与えるというものだ。
しかし、信光はあらかじめ信長にこの一件を報告し、大膳の味方になるふりをして清須城に向った。
信光は清須城を訪れると、坂井大膳も面会のため訪問した。
しかし、そこには信光の軍勢が待ち構えていたので、大膳は清須城を出奔し今川義元のもとへ逃亡したのである。
■叔父・信光の不審死
叔父・信光は父・信秀の弟とはいえ、信長の強力なライバルだった。信長が清須城に入城すると、那古野城には信光が入城した。
しかし、天文23年(1554)11月、信光は突如として亡くなったのだ。
信光の妻と信光の近習・坂井孫八郎が密通しており、関係がばれることを恐れた2人が共謀して、信光を殺したという(『甫庵太閤記』)。
しかし、この説は信憑性が低い『甫庵太閤記』に書かれたことなので信用できない。
『信長公記』には、「不慮のいきさつ(出来事)が起こった」と実に意味深長な記載がある。
さらにこの続きには坂井大膳と信光は互いに誓紙を交わしたが、信光がこれを破ったので罰を受けたとあり、これは信長にとって「果報(幸福な様子)」であると書かれている。
信光の死は、偶然だったのか。
信光の死因を記さないのは極めて不審であり、実に謎といわざるを得ない。
その死には何らかの事件性があり、信長によって粛清された可能性も否定できない。
『信長公記』は信長の公式な伝記なので、具体的な記述は避けられたと推測されるが、いずれにしても信光の死は、信長にとって「果報」だったのだ。
■兄・信広の扱い
信長には腹違いの兄・信広がいたが、側室の子であったため、家督を継承できなかった。
この信広も、信長に反旗を翻したのだ。その経過を述べることにしよう。
かつて信広は、今川氏や松平氏が勢力を持つ三河国・安祥城を守備していた。
ところが、天文18年(1549)3月、信広は今川氏の軍勢に敗れて安祥城を奪われ、捕虜になる大失態を犯す。
しかし、織田方には人質として松平竹千代(のちの徳川家康)が送り込まれており、信広と交換し無事に帰国を果たした。
のちに信長が織田家の家督を継ぐと、信広は配下として仕えたが、その心中には少なからず不満があった可能性がある。
弘治2年(1556)4月、信長の義父・斎藤道三が子の義龍に討たれた。
これをきっかけに信広は義龍と誼を通じ、清須城の乗っ取りを計画した。
ところが、信長は信広の謀反を知り、すぐに清須城の防禦を整えた。
結局、信広の計画は失敗し、援軍に馳せ参じた美濃衆も引き上げた(『信長公記』)。
しかし、意外なことに、信長は信広を処罰しなかったのだ。
信長は、信広が反抗しないと考え、「使える人材」と判断したのだろう。
その後、信広は天正2年(1574)9月の伊勢長島の戦いで討ち死にするまで、信長に仕え続けた。
少なくとも信長は、信広が従順な態度を示したので、その罪を許したのである。
■まとめ
このように、父から家督を継いだ信長は、一族との抗争に明け暮れて、尾張国内の統一に邁進。実は、苦労していたのが本当の信長の姿なのだ。