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【戦国こぼれ話】毛利輝元を支えた「毛利両川体制」とは、どのようにして整備されたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
毛利家は「毛利両川体制」がなければ、存続しえなかった。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 『戦国無双5』が山口県萩市とタイアップし、毛利輝元の等身大パネルが注目されているという。ところで、輝元といえば「毛利両川体制」であるが、どのようにして整備されたのだろうか。

■小早川家の乗っ取りと隆景

 毛利氏の家臣団の中核となり、総領家を支えたのが「毛利両川体制」の両翼だった小早川隆景と吉川元春だった。

 最初に取り上げるのは、小早川隆景である。

 小早川氏は、相模国早河荘(神奈川県小田原市)を本拠とした名族・土肥氏を祖とする。

 やがて、小早川氏は安芸国沼田本荘(広島県三原市)を本拠とした本家の沼田小早川氏、そして同国竹原荘(広島県竹原市)を本拠とした竹原小早川氏の2つに分かれて発展した。

 大永6年(1526)、小早川正平は父・興平の死により、わずか4才で沼田小早川家の家督を継承した。天文11年(1542)、大内氏が尼子氏を攻撃した際、正平も従軍したが敗北。

 翌年の全軍撤退時に正平は討ち死にした。小早川家の家督は、正平の子・繁平が継いだものの、盲目という大きなハンデを背負っていた。

 天文19年(1550)、毛利元就は小早川家の弱体に乗じて、隆景を沼田小早川氏に送り込み、繁平の妹を妻に迎えて乗っ取った。

 その6年前、隆景は竹原小早川家の養子になっていたので、両小早川家を配下に収めたことになる。

 以降、隆景は冷静沈着にことを進め、毛利氏の舵取り役として活躍した。天正10年(1582)6月の本能寺の変後、織田信長の死を知らなかった毛利方は備中高松城(岡山市北区)の戦いを取り止め、羽柴(豊臣)秀吉と和睦した。

 和睦の直後、隆景は秀吉の追撃を主張する家臣らを抑えたので、秀吉から信任を得たという。

 以後も隆景は毛利家のみならず、秀吉からも重用され、のちに輝元とともに五大老の1人に加えられた。

■吉川家の乗っ取りと元春

 次に取り上げるのは、吉川元春である。

 安芸国の名族・吉川氏は、天文年間には吉川興経が当主を務めていた。ところが天文16年(1547)、興経の配下の吉川経世は毛利氏の家臣に対して、元春の入城が本望であること、そして興経を隠居させるという内容の書状を送った。興経は、廃嫡を迫られたのだ。

 観念した興経は自ら起請文を認め、自身が毛利氏の領内に住むこと、毛利氏に対して異心がないことを誓約した。こうして毛利家から吉川家に迎えられたのが、元春だった。

 天文19年(1550)9月、元就の命を受けた熊谷信直と天野隆重は、興経と子の千法師を殺害した。2人が殺害されたので、吉川家は完全に乗っ取られたのである。

 隆景が毛利家のブレーン的な存在とするならば、元春は武闘派の役割を果たしたといえるかもしれない。

 隆景が山陽方面を侵攻する一方、元春は山陰方面に出撃し、出雲、伯耆、因幡の平定に尽力した。

 元春は激しい気性を持っていたことで知られ、備中高松城の戦いで秀吉と和睦をした直後、信長の死を知った元春は追撃を主張したという。

 鼻っ柱が強いゆえ、秀吉の軍門に降ることを潔しとせず、早々に子・元長に家督を譲って引退したといわれている。ただ、秀吉に抗したというのは、単なる逸話にすぎないだろう。

 その後、元春は秀吉に従って各地を転戦し、天正14年(1586)の九州征伐には病を押して出陣し、惜しまれつつ豊前国小倉城(北九州市小倉北区)で病没した。

■まとめ

 弘治3年(1557)、元就は嫡男の隆元に家督を譲り、同年11月、隆元・元春・隆景の三子に「元就教訓状」を与えた。

 元就は毛利家の存続を第一とし、吉川・小早川の支援は当面のものであり、毛利家中を盛り立てるため兄弟が協力する必要性を説いた。吉川・小早川両氏が毛利宗家を支える「毛利両川体制」は、この頃に成立したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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