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【戦国こぼれ話】秋田に美人が多いのは、佐竹氏が茨城から秋田に美人を連れて行ったからなのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
美人と言っても、それぞれに好みがあるように思うが・・・。(写真:アフロ)

 秋田県立博物館では、特別展「佐竹氏遺宝展」が開催されている。ところで、よく秋田に美人が多いのは、佐竹氏が茨城から秋田に美人を連れて行ったからといわれているが、それは事実なのだろうか。

■秋田美人とは

 そもそも秋田美人には、定義があるのだろうか。一説によると、肌が色白で目が大きく二重瞼、鼻筋が通った瓜実顔で眉がやや垂れ下がり、背がすらりと高く均整が取れているのが秋田美人だという。

 秋田美人といえば、小野小町を筆頭にして数多い。ちなみに、私の好みは壇蜜さんであるが、残念ながらすでに結婚してしまったが・・・。

 秋田に美人が多いのには、さまざまな説がある。地理や風土の影響は、その代表的なものであるが、先史時代にシベリアから渡った人と混血したなど、誠に興味深いものがある。

 しかし、昔からよくいわれているのは、「佐竹氏が茨城から秋田に美人を連れて行ったから」という説である。裏返せば、茨城にはブサイクな女性しか残らなかったことになる。

 数年前。茨城県に講演に行ったとき、この説について地元の人に尋ねると、「渡邊さん、茨城の女性の前で絶対にその話はしないでください!」と釘を刺された。それなら、自分で解明するしかない。

■佐竹氏の秋田移封

 佐竹氏といえば、常陸の名族である。厳しい戦国の世を生き抜いたが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、当主の佐竹義宣は東西両軍のいずれに与するのか曖昧な態度を取った。これが仇となった。

 慶長7年(1602)3月、上洛した義宣は伏見城(京都市伏見区)で徳川家康に謁見したが、その2ヵ月後に突如として秋田への移封を命じられた。まさしく青天の霹靂である。

 しかし、義宣はタダでは転ばなかった。秋田への事実上の左遷の腹いせとして、常陸の美人を掻き集め、秋田に連れて行ったというのだ。代わりに常陸に入った徳川頼房は、「美人がいない」と嘆いたという。

 話はこれだけでは終わらない。義宣は代わりと称して、秋田からブサイクな女性を掻き集め、常陸の頼房のもとに送り付けたというのである。事実ならば、とんでもない話である。

■真相はいかに

 佐竹氏が茨城から秋田に美人を連れて行ったという話は、『菅江真澄遊覧記』に書かれている。菅江真澄(1754~1829)は三河の生まれで、旅行家、博物学者として名を馳せた人物だ。

 『菅江真澄遊覧記』(全89冊)は、各地を旅行したときの記録で、民俗誌的な価値は非常に高いと評価されている。真澄の終焉の地は、角館(秋田県仙北市)である。

 ところで、いろいろと調べてみたが、当時の史料(一次史料:古文書、日記)では、「佐竹氏が茨城から秋田に美人を連れて行った」という事実を確認できない。

 もちろん「秋田からブサイクな女性を掻き集め、常陸の頼房のもとに送り付けた」というのも同じである。

 冷静に考えてみると、美人の尺度は人によって違うのだから、そもそも美人を厳選して掻き集めるなど不可能である。すでに結婚していた女性もいただろうから、難しいのは明白である。

 「秋田からブサイクな女性を掻き集め、常陸の頼房のもとに送り付けた」という話も同じ理屈で難しい。美人とブスを選り分けるのは大変時間がかかるうえに、別にメリットがない。

■まとめ

 つまり、「佐竹氏が茨城から秋田に美人を連れて行った」というのは、後世の人が創作した話であって、史実とは認めがたい。秋田に美人が多いことの裏付けとして、適当に考えたものであろう。

 茨城女性の名誉のために言っておくと、茨城も美女の宝庫である!個人的な好みとしては、羽田美智子さんだろうか。

 いずれにしても、「佐竹氏が茨城から秋田に美人を連れて行った」というのは根拠のないバカバカしい話で、検討にすら値しないとだけ言っておく。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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