【戦国こぼれ話】織田信長が明智光秀の母を見殺しにして、八上城の波多野氏を磔刑したのは真っ赤な嘘
兵庫県丹波市の織田信長を祭る建勲神社の「鳳輦(ほうれん:輿)」が、同市の柏原藩陣屋跡で展示されている。ところで、織田信長は明智光秀の母を見殺しにして、八上城の波多野氏を磔刑したというが、それは事実なのだろうか。
■見殺しにされた明智光秀の母
天正7年(1579)、明智光秀は八上城(兵庫県丹波篠山市)主の波多野秀治ら三兄弟を攻撃した。
その際、光秀が織田信長に恨みを抱くことになった、有名なエピソードが残っている。この点を『総見記』で確認しておこう。
戦いの終盤になって、光秀は愛宕山大善寺(京都市右京区)らを仲介として、波多野氏に和平を持ち掛けた。
というのも、光秀は八上城の攻略に苦戦しており、このままでは信長から叱責されるのが目に見えていたからだ。
その交渉内容とは、信長は丹波征伐に遺恨があるわけではなく、天下統一に志があるので、波多野氏が降伏すれば丹波一国を安堵し、家の存続を保証するというものである。
信長から和平の証として起請文を差し出すとまで言ったが、波多野氏は疑って和平を受け入れなかった。
そこで、一計を案じた光秀は、八上城に自身の母を人質として預け、秀治ら三兄弟の助命を約束したうえで和平に持ち込んだのである。5月28日に和平は成立し、光秀は母親を八上城に差し出した。
6月2日、秀治らは八上城を出て、光秀の城へやってくると、光秀は彼らをもてなした。ところが、光秀は突如として秀治らを捕らえると、その旨を安土城(滋賀県近江八幡市)にいる信長に報告したのである。
秀治は安土城へ連行される途中で怪我のため亡くなったが、弟の秀尚は安土城で自害した。
それを聞いた八上城の残党は、報復措置として光秀の母を磔にしたのである。これにより、光秀は信長に恨みを抱いたという。
ただ、これは『総見記』の説であり、巷間に流布しているのは、次のストーリーだろう。
光秀は和睦に際して、波多野氏の助命を条件にして母を差し出したが、信長は前言を翻して三兄弟を処刑した。これに怒った八上城の城兵は、光秀の母を磔にしたというものである。
■光秀の苦戦も母を差し出したのもウソ
実際はどうかと言えば、光秀は苦戦しておらず、戦いを有利に進めていた。『信長公記』には、光秀の兵粮攻めによって籠城していた兵卒は完全に疲弊していたと書かれている。
同趣旨のことは、天正7年(1579)に比定される4月4日付の光秀書状(「下条文書」)、同5月6日付の光秀書状(「小畠文書」)にも詳しく記されている。
光秀が戦いを圧倒的に有利に進めていたのが事実であり、八上城の落城は目前だったのである。
戦いで優位に立つ光秀が、敢えて波多野氏に対し、母を人質として送り込む必要はないだろう。また、光秀が母を差し出した事実は一次史料で確認できない。
『総見記』とは、『織田軍記』と称されている軍記物語の一種である。遠山信春の著作で、貞享2年(1685)頃に成立したという。本能寺の変から、100年ほど経て成立したものである。
内容は、史料的に問題が多いとされる小瀬甫庵の『信長記』をもとに、増補・考証したもので、脚色や創作が随所に加えられている。
『総見記』は史料性の低い甫庵の『信長記』を下敷きにしているので非常に誤りが多く、史料的な価値はかなり低いと評価されている。
そして、記述に大きな偏りが見られるため、とうてい信用に値するものではないと評価されている。したがって、歴史史料として用いるのは適切ではない。
結論を言えば、八上城の開城後の措置については、光秀の書状や『信長公記』の記述のほうが信憑性が高く、『総見記』などの記述はあてにならない。
したがって、光秀の母が信長に見殺しにされた話はまったくの創作であり、史実として認めがたいのである。
■まとめ
光秀に関するユニークな話は非常に多いが、おおむね信頼度の劣る二次史料に書かれたものが多く、そのほとんどが否定されている。この件に限らず、あまりに出来すぎた話には注意すべきだろう。