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【戦国こぼれ話】織田信長の葬儀は羽柴秀吉が勝手に行ったのではなく、衝撃的な真の理由があった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長の葬儀に、信雄・信孝の2人の子は参列しなかった。(提供:studiolaut/イメージマート)

 10月2日に織田信長の遺徳を偲んで、岐阜市の寺で追悼法要が営まれた。ところで、織田信長の葬儀に子が参列しなかったことは、あまり知られていない。以下、葬儀の経過を記すことしよう。

■羽柴秀吉と織田信孝が主導した葬儀

 天正10年(1582)6月に織田信長が本能寺の変で横死した。その後、羽柴(豊臣)秀吉が信長の葬儀を主催したのは、自らが天下人になるためだったと言われているが、それは正しいのだろうか。

 同年7月3日付の織田信孝書状(本能寺宛)によると、本能寺の屋敷を信長の墓所とすべく、僧に還住を求めていた(「本能寺文書」)。信長の次男の信雄でなく、三男の信孝が信長の墓所選定を進めていたのだ。

 同年7月6日、増田長盛は本能寺の寺家に対し、僧に還住を求めたことを秀吉に伝えたことなどを知らせた。続けて、長盛は本能寺の寺家に書状を送り、信長の屋敷跡に陣取を禁止する旨を伝えた。

 さらに同年7月8日、秀吉は本能寺に寄宿を免許した(以上、「本能寺文書」)。以上のとおり、信孝と秀吉が中心となり、信長の墓所は決まっていたようである。

■親族らによる百日忌

 同年7月20日には、本能寺の焼け跡に仮屋を設け、細川藤孝が百韻の追善連歌を主宰して興行した(『細川家記』)。その日は、信長の四十九日だった。

 同年9月11日には、勝家の妻・お市と信長の乳母が信長の百日忌を行った(『月航和尚語録』)。翌9月12日には、信長の四男で秀吉の養子・秀勝が大徳寺で百日忌を催した(『法用文集』)。信長の親族や関係者は信長の百日忌を行い、供養をしていたのである。

 同日、阿弥陀寺(京都市上京区)の清玉も、信長・信忠父子の百日忌の法会を行った(『言経卿記』)。阿弥陀寺は近江国坂本(滋賀県大津市)に所在したが、清玉が信長の帰依を受け、上京今出川大宮に移転した。

 それゆえ清玉は恩を感じて、信長・信忠父子の百日忌の法会を行ったのだろう。一説によると、清玉は変後の本能寺へ行き、骨や灰を集めて阿弥陀寺に葬ったという(『雍州府志』)。

 この間、信雄と信孝が法会を行った形跡はない。なお、信長の葬儀が正式に行われたのは、同年10月15日のことである。

■信長の葬儀の挙行

 同年10月9日、丹羽長秀の名代として、3名が上洛した。うち1人は、家臣の青山助兵衛尉だった(『兼見卿記』)。

 同年10月14日、信雄と信孝が上洛して葬儀を中止させるとの噂が流れたが、それは実現しなかった(『晴豊公記』)。

 『蓮成院記録』によると、滝川一益、丹羽長秀、柴田勝家、信孝の名代・池田恒興は上洛したが、抑留されたという。つまり、葬儀には参加できなかったのだ。

 こうして信長の葬儀は、同年10月15日に執り行われた。棺には信長の木像が入れられた。信長の遺骸が発見されなかったからだろう。

 棺の前を歩いたのは、池田輝政である。恒興が出席できなかった代理であるとともに、『晴豊公記』には恒興の母が信長の乳母だったからだと書かれている。

 棺のあとを歩いたのは、次(信勝。信長の四男)だった。実質的な喪主である。秀吉は、信長の愛刀「不動国行」を持って参列した。

 結局、主だった人で参列したのは、丹羽長秀の名代が3人、そして細川藤孝くらいだった(『兼見卿記』)。

■ついに来なかった信雄と信孝

 秀吉は信雄や信孝に葬儀の連絡をしたが返事が来なかったこと、また重臣らも葬儀を行う素振りすらなく、このままでは世間体が悪いので自ら計画したという。しかし、実際の準備は、9月から始まっていた。

 なぜ、信雄・信孝という2人の信長の子が葬儀に参列しなかったのか。信長の死後、信雄が尾張、信孝が美濃を領有することになっていたが、その国境をどう画定するかによって、双方の関係はこじれていたのである。ゆえに、2人は葬儀に参列しなかった。

 秀吉が信長の葬儀を主催したのは、自らが天下人になるためだったと言われているが、それは違う。理由は、織田家の2人の兄弟の内輪揉めにあったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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