Yahoo!ニュース

【光る君へ】ナレ死では気の毒。藤原道兼のほかに疫病で亡くなった6人の公家

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道兼が疫病によって亡くなった。実は、ほかにも疫病で亡くなった公家がいたが、気の毒なことにナレ死だったので、紹介することにしよう。

◎源重信(922~995)

 重信は、敦実親王の子として誕生した。兄は、雅信である。安和2年(969)に安和の変が起こると、重信は首謀者の源高明の女婿だったので、連座して失脚した。

 しかし、のちに許されると順調に出世し、正暦2年(991)に右大臣に任じられた。雅信の死後、重信は左大臣に昇進したが、疫病により長徳元年(995)5月8日に亡くなったのである。

◎藤原済時(941~995)

 済時は、師尹の子として誕生した。安和の変後、済時は父の師尹ともども昇進を果たし、従三位に叙位されて公卿に列した。済時は関白を務めた藤原道隆と酒を通して親しい関係にあり、正暦2年(991)には正二位・大納言に昇進した。ところが、長徳元年(995)4月23日、重信は疫病により病没したのである。

◎藤原朝光(951~995)

 朝光は、兼通の子として誕生した。朝光はトントン拍子で出世して、貞元2年(977)には従二位・権大納言兼左近衛大将となった。まだ27歳の若さだった。しかし、その後の出世は停滞し、永延3年(989)に健康上の理由で左近衛大将を辞任した。疫病で亡くなったのは、長徳元年(995)4月22日である。

◎藤原道頼(971~995)

 道頼は、道隆の子である。長男だったが、道隆が妻を迎えた高階家を重視したので、その間に産まれた次男の伊周が後継者と目されるようになった。それでも道頼は順調に出世したが、伊周が内大臣になった時点では、権大納言だった。疫病で亡くなったのは、長徳元年(995)6月11日である。

◎源保光(924~995)

 保光は、代明親王の子として誕生した。大変な苦労人で、若い頃は地方官を務めたこともあった。長命だったこともあり、永延2年(988)に中納言に昇進した。長徳元年(995)に従二位に昇ったが、その年の5月9日に疫病で亡くなったのである。

◎源伊陟(938~995)

 伊陟は、兼明親王の子として誕生した。天暦6年(952)に従五位下に叙爵されると、以後はそれなりに昇進を重ねていった。寛和元年(985)に従三位に叙されると、翌年には正三位に昇叙された。永延3年(989)に権中納言になったが、長徳元年(995)5月22日に疫病で亡くなったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

渡邊大門の最近の記事