上杉謙信が戦勝祈願に訪れた風巻神社(新潟県上越市)は、バイク神社として大人気だという。ところで、上杉謙信は幾多の大名と戦ったが、とりわけ武田信玄、北条氏康は、謙信をどう思っていたのだろうか。

■信玄は謙信をどう思ったのか

 永禄2年(1559)9月、武田信玄は信濃の生島足島神社(長野県上田市)に上杉謙信(当時は長尾景虎)を打ち破ることを祈願し、願文を捧げた(「生島足島神社文書」)。そこには、「長尾景虎たちまち追北し消亡」という過激な一文が記されている。

 2人は信濃の川中島(長野市)で戦ったので、信玄の気持ちは正直なものだろう。逆に、永禄7年(1564)6月24日付の上杉謙信願文は、「武田晴信(信玄)悪行の事」ではじまり、本文では信玄の非道ぶりや不誠実さを手厳しく論難している。

 『甲陽軍鑑』によると、死が近づいた信玄が子の勝頼に言い残した言葉がある。信玄は勝頼に謙信と和睦するように述べ、謙信は強い武士なので、勝頼のような若い者を苦しめることはないという。そして、よく謙信と相談して和睦を依頼すれば、間違うことはないとする。

 信玄は大人げなかったので、ついに謙信に和睦を申し込まず実現しなかったが、勝頼は謙信と和睦を結びなさいと念を押す。そのように謙信に依頼しても、決して難しいことではないと信玄は言葉を結んでいる。信玄の最後のアドバイスであった。

 『甲陽軍鑑』は後世に成った史料なので、多少割り引いて考える必要はあるが、以上の言葉には信玄が若い勝頼を諫める意味合いもあったと考えられる。

 元亀4年(1573)に信玄が亡くなった際、自身の死を3年間秘匿するよう命じた。つまり、信玄は勝頼が積極的に外に打って出ることに不安を感じ、謙信が信頼できる人物と評価したうえで和睦を命じたのではないだろうか。

■僧侶も会いたかった名将・謙信

 天正4年(1577)10月15日付で教雅(甲斐法善寺の僧侶)が越後の長福寺の空陀に宛てた書状には、信玄が謙信を評した記述がある(「歴代古案」)。

 内容は、謙信が太刀において「日本無双の名大将」であると、信玄は常々教雅に語っていたというのである。まさしく最高の賛辞の言葉である。

 この書状は、長篠合戦後における甲斐武田氏の惨憺たる状況を知らせたもので、当時、教雅は紀州高野山にあった。

 この書状の続きには、興味深い一節がある。教雅は一度でも謙信に面会したいという願望を持っていたが、高齢で肉体的にも衰えており、お目にかかれぬまま寿命を迎えることは、誠に無念至極であると記している。教雅も名将の謙信に一目会いたいと願っていた。

 教雅は信玄に身近に接し、つぶさに謙信の話を聞いたことから、謙信に強い関心を抱いたのだ。

 信玄と謙信は好敵手であったが、信玄が謙信を称えていたというこの話は、後世に語り継がれることになった。

■氏康は謙信をどう思ったのか

 謙信のもう一人のライバルの北条氏康は、謙信をどのように見ていたのだろうか。永禄6年(1563)7月18日、謙信は飯塚八幡宮に願文を納め、武田信玄と北条氏康の討伐を祈念しているが、やはり2人を「悪逆無道」と非難している(「飯塚八幡宮文書」)。

 将軍足利義輝は謙信と氏康の和睦を勧めるが、2人はなかなか応じなかった。それどころか、謙信は氏康のことを「伊勢」と呼び、氏康もまた謙信を「長尾」と呼んだ。互いに敵対心を剥き出しにしているのは、むしろ当然のことであろう。

 旧名字で呼びあったのには理由がある。互いが名乗った「上杉」「北条」といった関東管領職や名家の名字を承認せず、古い名字で呼ぶことによって、その正当性を否定しようとしたのであろう。この点は互いのコンプレックスを突いている反面、プライドの高さもうかがえる。

 一説によると、氏康は謙信を義理堅い人物であったと高く評価していたというが、それすらも疑わしいほど激しいライバル心がうかがえる(『名将言行録』)。

 最終的に、政治的な判断により謙信は氏康の後継者の氏政と和睦を結ぶが、それはあくまで信玄に対抗するものであった。

 謙信は信玄や氏康と激しい攻防を繰り広げたが、それは後世に至って美談に転化したのかもしれない。

 それは、謙信の「義」を重んじる精神と相まって、その度量の広さは広く人々の心をとらえたのである。