福井市の一乗谷朝倉氏遺跡では、国の特別史跡指定50年、特別名勝指定30年を記念してイベントが催されている。ところで、朝倉氏最後の当主だった義景は、織田信長によって無残な最期を迎えたことを紹介しよう。

■朝倉氏の本拠・一乗谷

 朝倉氏の本拠・一乗谷は、福井市(旧一乗谷村)の福井平野の東部に位置する。一乗谷朝倉氏遺跡は、一乗山(740.9m)の西麓に所在し、近くには一乗谷川が流れている。朝倉氏は一乗城山(435.8m)の山上に城を築き、麓に城下町を構えていた。

 戦国時代において、京都はたび重なる戦乱で荒廃したが、一乗谷はそうした影響がなかった。そのため、京都の公家や文化人は戦火を逃れ、朝倉氏の庇護を受けつつ一乗谷で過ごした。最盛期には人口が1万人を超えたといわれ、京都に負けないほどの文化を誇っていた。

 現在、一乗谷朝倉氏遺跡には、朝倉館跡、花壇跡、朝倉義景墓、中の御殿跡(義景の母・光徳院の住まい)のほかに、湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園、朝倉館(義景館)跡庭園が当時の趣を残している。また、城下町の跡には、復元された町並、侍屋敷、町屋、寺院跡などがある。

■織田信長との対決

 天正元年(1573)7月26日、京都を発った織田信長は、敵対する朝倉氏、浅井氏を討つべく、巨大船に乗って近江高島郡へ出陣した。

 信長は陸路からも軍勢を差し向け、木戸城(滋賀県大津市)、田中城(同高島市)を次々と落し、両城は明智光秀に与えられた。この勝利により、織田方は湖西方面で優位になった。

 同年8月、浅井氏の配下にあった阿閉氏、浅見氏が裏切り、信長の配下に加わったので、朝倉・浅井連合軍の態勢は不利になった。

 同じ頃、越前の朝倉氏は余呉、木之本(以上、滋賀県長浜市)まで出陣し、信長の軍勢と交戦した。

■朝倉氏の滅亡

 信長は自ら出陣して朝倉軍と交戦して蹴散らすと、そのまま越前へ退却する朝倉軍を追撃した。

 これにより、敦賀(福井県敦賀市)付近に至るまで、朝倉軍の約3000の兵が討たれた。討たれた将兵には、朝倉氏の一族や重臣が含まれていたので、朝倉氏は窮地に陥ったのである。

 同年8月、織田軍が敦賀から越前国内に攻め込むと、義景は一乗谷(福井市)を捨てて賢松寺(福井県大野市)に逃亡した。

 その後、義景の母と嫡男・阿君丸は織田軍に捕まって殺害された。8月20日、朝倉義鏡(義景の従兄弟)が織田方に寝返った。これが決定打となり、義景は自害して果てたのである。

■薄濃にされた義景の頭蓋骨

 朝倉氏の滅亡後、信長家臣の長谷川宗仁の手によって、義景の首は京都で獄門に晒された。

 さらに、信長は義景や浅井久政・長政の首に箔濃(はくだみ。漆を塗り金粉を施すこと)を施し、家臣に披露した。その様子は、『信長公記』に次のとおり書かれている。

一、古今承り及ばざる珍奇の御肴出て候て、又御酒あり。去年、北国にて討ちとらせられ候、

一、朝倉左京太夫義景    首

一、浅井下野(久政)    首

一、浅井備前(長政)    首

已上、三ッ薄濃にして公卿に居ゑ置き、御肴に出され候て御酒宴。各ゝ御謡御遊興、千々万々目出度御存分に任せられ御悦びなり。

 信長は箔濃にされた義景らの首を酒の肴にして、酒宴を催した。謡などの遊興を催し、大いに喜んだというのである。

 『浅井三代記』によると、信長は箔濃にした首を杯にして酒を飲んだというが、現在では単なる創作にすぎないと否定されている。

 このエピソードは、信長の冷酷性や残酷性をあらわす措置とする見解が通説である。近年では、首に敬意を払った死化粧であるとの見解もある。

 ともあれ、通常では行わないことなので、信長の家臣は大いに驚いたに違いない。この勝利によって、信長は以後の戦いに弾みを付けたのだ。