名古屋市博物館は特集展示「慶長の朝鮮出兵」で、豊臣秀吉の直筆書状を初公開した。約7000通の秀吉の書状のうち、直筆は130通ほどが知られている。今回の直筆書状は、側室に宛てたものだが、なぜ秀吉には大勢の側室がいたのか考えてみよう。

 秀吉の正室は、「おね(ねね)」である。しかし、秀吉は側室として、十数人の女性を囲っていた。今回、秀吉が自筆で書状を送った相手は、蒲生氏郷の妹で側室の「おとら」で、病気見舞いと舟遊びへ誘う内容である。

■家を永続的に残す知恵

 そもそも、なぜ戦国武将には側室が必要だったのかを考える必要があろう。当時の戦国武将にとっては、結婚した女性が後継者たる男子を産むことが重要だった。家を永続的に残すためである。

 当時は医療が未熟だったので、子供が幼くして亡くなることも珍しくなかった。成長の過程で亡くなることもあろう。

 したがって、男子はたった一人ではなく、多ければ多いほどよかった。女子も政略結婚で必要になるので、大歓迎だった。

 そう考えると、子を産む妻が一人では誠に心もとない。子が生まれなかった際のリスク管理が必要である。

 複数の側室がいれば、大勢の子供に恵まれる可能性があるので、迎えるのが当然だったといえよう。養子を迎えるという方法もあったが、それは最後の手段にすぎなかったのだ。

 秀吉の例に即して言えば、正室の「おね(ねね)」との間には、ついに子が誕生しなかった。秀頼を生んだのは、側室の淀殿である。側室を迎えた甲斐があったのである。

■政略結婚という理由

 一方で、側室を迎えるもう一つの大きな理由は、政略結婚である。当時の戦国武将は和睦を結ぶ際、締結の証として人質を交換したり、婚姻関係を結んだりすることが多かった。側室を迎えるのも、その一つだった(子同士の結婚もあった)。

 その場合、すでにそれなりの高齢になっていた秀吉が政略結婚により、若い側室を迎えることもあったのだ。

 秀吉がどこまで女性に対する性的な関心があったのか不明であるが、止むにやまれぬ事情があったのも事実である。

■まとめ

 かつて、秀吉が大変な女性好きで、本当はお市の方(織田信長の妹)との結婚を望んだとか、若い女性に異常なほどの関心を示したと言われたことがあった。

 しかし、お市の方と柴田勝家の結婚に動いたのは秀吉である。こうした説は、後世の史料に基づく俗説に過ぎない。

 ともあれ、戦国時代の武将と女性に関しては、時として性的な関心から語られることもあったが、それは俗説に過ぎないことも多い。

 秀吉に限らず戦国武将が側室を迎えたのは、後継者の子を産む、あるいは和睦締結のためという、現実的な問題から生じたと考えるべきだろう。