東京パラリンピックが8月24日に開幕した。コロナと猛暑の悪条件ではあるが、選手の皆さんには大いにがんばってほしいと思う。ところで、戦国時代にも障害を負いながらも活躍した武将たちがいた。今回は、代表的な4人を紹介することにしよう。

■伊達政宗(1567~1636)

 永禄10年(1567)、伊達政宗は輝宗の子として誕生した。幼名は梵天丸である。天正5年(1577)に元服し、政宗と名乗った。しかし、政宗はわずか5歳のときに不幸に見舞われた。

 政宗は天然痘に感染し、片目を失明してしまったのである。天然痘は疱瘡、痘瘡ともいい、感染者の半数近くが亡くなるという、恐ろしい病だった。仮に治ったとしても、膿疱(膿の盛り上がり)の跡の瘢痕(「あばた」のこと)が残ることもあった。

 伊達家の家臣は、政宗の片目が見えないのは生まれつきではなく、疱瘡によるものだと証言している。幼かった政宗は、片目を失明したことに強いコンプレックスを抱いていた。無理からぬところだろう。

 しかし、成長した政宗は、僧の虎哉宗乙(こさいそういつ)から学問の手ほどきを受け、武将にふさわしい教養を身に付けた。長じて伊達家の当主となり、仙台藩祖になったのは周知のことである。

■山本勘助(?~1561)

 武田氏配下の山本勘助は、これまで架空の人物ではないかといわれていたが、近年には新しい史料がいくつも発見され、その実在はゆるぎないものとなっている。しかし、その生涯には、相変わらず謎が多い。

 実は、勘助も身体に大きなハンディキャップがあった。天文5年(1536)、勘助は駿河の大名・今川義元に仕官すべく、その家臣だった朝比奈信置を通して仕官を願い出た。

 ところが、勘助は体中に無数の傷があり、色黒で醜い容姿だった。加えて、勘助は片目を失明しており、指も揃っておらず、足も不自由だった。義元は勘助を不審に思い、召し抱えることはなった。

 その後、勘助は不遇の年月を過ごしたが、破格の待遇で甲斐の武田氏に迎えられた。勘助は水を得た魚のように大活躍し、いくつもの合戦で大いに軍功を挙げた。永禄4年(1561)の川中島の戦いで、勘助は満身創痍になっても戦ったが、最後は上杉軍の将兵に槍で刺され、非業の死を遂げたのである。 

■大谷吉継(?~1600)

 大谷吉継も謎が多い人物で、その出自については諸説ある。天正年間から羽柴(豊臣)秀吉に仕え、各地を転戦した。天正17年(1589)には、越前敦賀城(福井県敦賀市)主になった。

 吉継が目を患っていたのは事実である。一説によると、吉継はハンセン病だったといわれている。顔面の一部が爛れていたため、常に白い布で顔を覆っていたという。関ヶ原合戦の屏風のなかでも、吉継は白い布で顔を覆い、輿に乗った姿で描かれている。

 最近の研究によると、近世に成立した『関ケ原合戦誌記』、『関ケ原軍記大成』などの影響によって、先述した吉継のイメージが作られたというが、いずれにしても眼病を患っていたのはたしかである。吉継は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、小早川秀秋の裏切りに遭い、無念にも自害して果てた。

■立花道雪(1513~1585)

 立花道雪は戸次鑑連(べっき あきつら)ともいい、豊後大友氏の家臣だった。道雪は大友氏の命に従って各地を転戦し、大いに軍功を挙げた。実は、道雪は半身不随だったといわれている。

 道雪が大木の下で昼寝をしていたとき、急な夕立で雷が道雪に落ち、左足が不自由になったと伝わる。そのとき、とっさに雷を斬った刀は、「雷切」と称されるようになった。それでも道雪は身体が丈夫だったので、普通の者よりも身体能力が優れていたという。

 晩年の道雪は輿に乗り、2尺7寸(約82センチ)の刀、3尺(約1メートル)の刀を振り回し、敵陣に突撃したといわれている。それゆえ道雪は、「斬雷の闘将」と称されたのである。

■まとめ

 戦国時代、身体にハンディキャップを負った武将は、さまざまな面で苦労が伴った。しかし、彼らはハンディキャップを克服し、戦場で大いに活躍し、栄光を手にしたのである。