【中世こぼれ話】これじゃ、がんばっても出世できない。厳密な家格が定まっていた公家社会の出世コースとは
成果主義が採用された現在、サラリーマンの出世競争はし烈さが増している。しかし、前近代の公家社会では、あらかじめ家柄によって、出世できる地位が決まっていた。以下、詳しく解説しよう。
■公家の家柄と官位
古代以来、厳密な家格秩序が形成されていたのが公家の社会である。公家のうち、五位以上の者を堂上家と称する。堂上家は、清涼殿(天皇の御座所)に昇殿を許された。
昇殿とは、清涼殿南廂にある殿上の間に昇ることで、ゆえに殿上人とも呼ばれた。逆に、昇殿を許されなかった六位以下の者(例外はある)は、地下(じげ)と称されたのである。
当初、昇殿は個人に対して許可されたが、徐々に許される家柄が固定した。その家格秩序は、上から順に①摂家、②清華家、③大臣家、④羽林家、⑤名家、⑥半家に整理することができる。
たとえば、摂政・関白に就けるのは摂家(近衛、九条、鷹司、二条、一条の五家)に限られるなど、家柄によって昇進できる官位はほぼ決まっていた。
■武家と官位
本来、公家社会において、武家はほとんど官位を授かることはなかったが、戦国期以降は地方の大名らが金銭と引き換えに、官位を申請するようになった。
朝廷も財政がひっ迫していたので、官位を授けたのである。室町期には、守護が幕府に官位の申請を依頼し、幕府が朝廷に依頼した。
ただ、その多くは自称するなど、多くは正式なルートによるものではなかった。それぞれの家では、先祖代々の自称する官位があったのだ。
官位がどこまで領国支配に良い影響を与えたのかは議論があるが、現在では目に見える効果はなかったという説が有力である。
おそらく、官位を授かった当人は、自らの権威付けのために欲したのではないだろうか。
■「三国司」たち
南北朝期の争乱期になると、公家も南朝と北朝に分かれた。南朝に与した北畠氏は伊勢に、同じく姉小路氏は飛騨に国司として下向した。
北畠、姉小路の両氏は、やがて在地領主化していった。当初、彼らは上洛して朝廷での務めを果たすこともあったが、戦乱が激しくなると、徐々に足は遠のいた。
一方、やや事情が異なるのが一条氏である。応仁元年(1467)の応仁・文明の乱以降、公家は財政基盤となる荘園からの年貢が途絶えるようになり、直接荘園に赴き、年貢を徴収しようと考えた。
一条氏が下向したのが、家領の土佐国幡多荘(高知県四万十市など)であった。以降、一条氏も在地領主化を遂げ、北畠、姉小路の二氏を加えて、「三国司」と称された。とはいえ、現在では「三国司」なる名称も否定的な見解が多数を占める。
しかし、北畠、姉小路、一条の三氏は、さほど強大な大名へと変貌することなく、おおむね織豊期には姿を消している。
その理由は、いかに名家・名族といえども、戦国を生き抜くだけの軍事体制を十分に築けなかったことにあろう。
■関白になった豊臣秀吉
こうした公家社会に大きな衝撃を与えたのが、豊臣秀吉である。天正13年(1585)、摂家における関白職をめぐる争いに乗じて、秀吉はどさくさに紛れ、関白に就任した。
先述のとおり、関白職に就けるのは摂家に限られていたので、秀吉の関白就任は公家社会に大きな衝撃を与えた。
その後、関白職は、秀吉の養子・秀次に継承された。同時に、秀吉は独自の武家官位制を実行し、武家の序列化を進めている。
このように公家社会の序列は、戦国期に至って変質を遂げるが、多くの戦国大名にとって、高い官位はどうしても欲しかったに違いない。