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【戦国こぼれ話】応仁・文明の乱の元凶となった足利義政と日野富子。仲が悪い夫婦だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
日野富子は守銭奴で、金儲けで頭がいっぱいだったと言われている。(写真:アフロ)

 たえずマスコミを賑わせるのは、結婚している夫婦の浮気。仲が悪くない場合もあるので、不思議である。仲が良くなかった夫婦と言えば、足利義政と日野富子。いったいどんな夫婦だったのか?

■足利義政とは

 永享8年(1436)、義教の子として誕生。7代将軍・義勝が早逝したので、わずか8歳で征夷大将軍に就任した。義政と名乗ったのは、享徳2年(1453)である。

 それまで室町幕府は、守護抑制策を行っていたが、その反動で各守護家内部での家督紛争が相次いだ。畠山、斯波家などはその代表である。もはや義政の力では、争いが鎮まらない状況に陥っていた。

 義政には子がなかったので、弟の義視にやがて譲ろうと考えたが、実子の義尚が生まれたので、状況が変わった。このことも応仁・文明の乱の引き金となった。

 応仁元年(1467)に応仁・文明の乱が起こっても、義政は事態の収拾に動かず、文事に傾倒する側面があった。現実を直視しなかったのだ。

 文明5年(1473)に将軍の座を退き、子の義尚に譲ったものの、なお実権は手放さなかった。結局、義政は応仁・文明の乱の終結に貢献せず、張本人と評価された。

■日野富子とは

 永享12年(1440)、日野政光の娘として誕生。義政と結婚したのは、16歳のときである。4年後に一子をもうけたが早逝した。

 早逝したのは義政の乳母・今参局が呪いを掛けたとし、琵琶湖沖島に流した(途中で自害)。早々に実子を亡くしたことが、のちに暗い影を落とした。

 寛正6年(1465)、富子は義尚を生んだ。やがて、義政が養子に迎えた弟・義視の立場は悪くなり、足利家の家督をめぐって暗雲が立ち込めた。

 また、富子は京の七口に関所を置き、税を徴収していた。豊かな財政力を背景にして、富子は政治に介入するようになったのである。

 義視が西軍に擁立されたので、富子は東軍の細川勝元を積極的に支援した。夫の義政が政治に意欲を失う一方、富子は兄の勝光とともに積極的に関与する。こうしたことが、政治の混乱へとつながった。

 富子には多くの逸話があるが、政治的混乱を助長したことから、悪女と評されている。夫婦仲も悪かったといわれている。

■本当に仲が悪かったのか

 義政は政治に熱心ではなく、かつ無能だった。富子は政治に介入したうえに、金を貯め込む守銭奴だった。そんな2人の仲が良いはずがない、と考えるのが普通かもしれない。

 とはいえ、富子の蓄財は決して私利私欲のため(贅沢のため)に行われたのではなく、不足する幕府財政や朝廷財政を補うためだったともいう。従来の説は、再検討を迫られている。

 そうなると、表面的な出来事で義政と政子の夫婦関係を論じるのではなく(二次史料の影響もある)、さらに踏み込んだ検討が必要だろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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