【戦国こぼれ話】改めて考えてみる。大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀の謎多き経歴の秘密とは
昨年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀。未だに人気が衰えず、今もネット上で話題になっている。そもそも明智光秀はいったいどんな経歴の人物だったのか。考えることにしよう。
■謎多い前半生
明智光秀は生年が不詳。父の名も各系図によってバラバラである。一説によると、美濃国守護土岐氏の諸流・土岐明智氏の流れを汲むというが、その事実を示すたしかな史料はない。しかし、親族が美濃にいたという記録があるので、美濃が出身地だった可能性は非常に高いといえる。
光秀の前半生は謎だらけである。光秀がたしかな史料に登場するのは、永禄11年(1568)に織田信長が足利義昭を推戴して上洛した頃である。それ以前は、越前朝倉氏に仕えていたとか、医者だったとかの説があるが、たしかな証拠があるわけではない。
永禄11年(1568)の段階における光秀は、足利義昭に仕えながら、織田信長の命にも従っていたという。このように2人の主に仕えることは、当時、決して珍しいことではなかった。以降、光秀は2人に両属する形になった。この間、光秀は京都支配の一端を担っていたのである。
■織田信長と足利義昭の決裂以後
元亀4年(天正元年:1573)、信長が義昭と決裂すると、光秀は信長の味方になった。以後、光秀は義昭との関係を断ち、信長の家臣になったのだ。その後、光秀は信長の命に従って、大坂本願寺との戦いをはじめ各地を転戦した。
天正3年(1575)以降、光秀は信長の命により、丹波攻略に着手した。当初、光秀は信長に抵抗する宇津氏、赤井氏に対して攻勢に出ており、降伏させるまであとわずかのところまで追い込んだ。光秀の勝利は目前だったのだ。
しかし、翌天正4年(1576)1月、丹波八上城(兵庫県丹波篠山市)主の波多野秀治が突然裏切り、無念にも丹波から敗走した。以後、光秀は丹波攻略に専念することができず、信長の命により大坂本願寺攻めなどで各地を転々として忙殺された。
天正6年(1578)3月に恐れていた赤井直正が亡くなると、形成はにわかに逆転。光秀は再び丹波攻略に注力した。翌天正7年(1579)以降、丹波八上城攻撃は本格化し、同年6月には落城に追い込んだ。これにより、丹波は織田家の支配下に収まった。
光秀は恩賞として丹波を授けられ、亀山城(京都府亀岡市)に本拠を置いた。同時に、信長から細川藤孝(幽斎)、筒井順慶が与力として付けられ、近畿方面軍を率いることになったのである。むろん、光秀の地位は、信長家臣団の中でも上層部に位置していた。
■豊かな教養を持った光秀
天正9年(1581)になると安土(滋賀県近江八幡市)で催した左義長、そして京都御馬揃えの運営責任者を任された。信長の厚い信頼を得ていた証でもある。同年6月には、「明智光秀家中軍法」を制定し、軍法に加えて軍役までも規定した。
光秀は豊かな教養があったといわれ、連歌師の里村紹巴とその門派たちと交流し、たびたび連歌会を催す。また、信長から茶の湯を許されたので、津田宗及の指導のもとで茶会も開催した。特に、光秀は頻繁に連歌会を主催したことが指摘されている。
この間、光秀は信長からひどい仕打ちを受けたという逸話があるが、それらをたしかな史料で裏付けることはできない。天正10年(1582)5月、光秀が安土で徳川家康をもてなした際、肴が腐っていたとされているが、こちらも疑わしい。
■運命の本能寺の変へ
その後、光秀は信長から備中高松城で戦う羽柴(豊臣)秀吉の応援に行くよう命じられた。命を受けた光秀は、愛宕神社に詣でて戦勝祈願を行った。直後に催された『愛宕百韻』で光秀が詠んだ発句(「ときは今 天が下知る 五月哉」)は、信長を討つことを表明したと言われているが、疑問視されている。
同年6月1日未明、光秀は亀山城を出発したが、備中高松城の方向に進まず、本能寺に進路変更した。そして、本能寺に到着した光秀は信長を討ったのである。しかし、光秀の天下は長く続かず、同年6月13日の山崎の合戦で秀吉に敗れ、逃亡の途中で土民に討たれて戦死したのである。