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【戦国こぼれ話】「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄に抗した村上義清とは、いかなる人物か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田信玄は村上義清の大敵だった。(提供:アフロ)

 今年は武田信玄が生まれて500年という記念すべき節目を迎えたが、その信玄に果敢にも戦いを挑んだのが村上義清である。村上義清とは、いかなる人物だったのだろうか。

■村上氏とは

 信濃村上氏は、源頼義の弟頼清の流れを汲む。頼清の孫顕清が信濃に流され、以後、村上氏は信濃国更級郡村上(長野県坂城町)を本拠とした。信濃の名族である。

 文亀元年(1501)、村上義清は顕国の子として葛尾城(長野県坂城町)で誕生した。永正17年(1520)に父顕国が病没すると、家督を受け継いだといわれている。なお、父顕国の没年は大永6年(1526)という異説もある。

■信濃の情勢

 16世紀初頭、信濃をめぐる政治情勢は不安定であった。義清は北信濃の井上氏や高梨氏そして東信濃の海野氏と交戦し、信濃守護代の大井氏と抗争を繰り広げ、領土拡大を目論んだ。

 最大の難敵は、信濃での領土拡大を狙う甲斐の武田氏だった。一度は武田氏に佐久郡を奪われるが、義清は海野平の戦いで勝利を得て、小県郡を配下に収めることに成功した。

 やがて、武田晴信(信玄)は父信虎を追放すると、天文17年(1548)に小県南部へ侵攻した。しかし、義清は上田原(長野県上田市)の戦いで果敢に反撃し、武田勢を撃退することに成功した。

 天文19年(1550)にも、義清は武田氏と戸石城(長野県上田市)で交戦するが、再び辛うじて勝利を得る。この頃から、信玄は村上勢に与した武将の切り崩しを目論み、家臣の真田幸綱(幸隆)に調略戦を命じた。

■抗争の激化

 天文20年(1551)以降、義清と武田氏の抗争は激化し、当初は一進一退の攻防を繰り広げる。しかし、義清配下の家臣が徐々に武田氏と誼を通じるようになると、義清は劣勢に追い込まれた。

 天文22年(1553)7月に武田氏が大軍を率いて出陣すると、危機的状況に陥った義清は、長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に落ち延びた。このことが、のちの川中島の戦いにつながった。

 謙信は泣きついてきた義清のため、一肌脱いで、信玄との戦いを決意したという。謙信が「義の武将」といわれる所以である。しかし、こうした見解がどこまで正しいのか疑問である。

 以後、義清は上杉家の家臣となり、嫡男の国清は謙信の養子となり山浦姓を名乗った。永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いで、義清は信玄の弟信繁を討ち取る軍功を挙げたという。

 義清は元亀4年(1573)1月1日、越後根知城(新潟県糸魚川市)で73年の生涯を閉じた。墓所は、日滝寺あるいは根小屋地内の安福寺などの説がある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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