戦国大名の人格を知るうえで、貴重な史料とされるのがポルトガルの宣教師フロイスの『日本史』である。フロイスは多くの大名と接して、その人格を評価した。しかし、その評価基準は明確に偏っており、キリスト教を信仰している(あるいは理解を示す)戦国大名を高く評価した。

 逆に、信仰するどころか弾圧するような戦国大名については、ボロカスのけちょんけちょんにその人格を批判した。そのような偏りがあるものの、非常にユニークでもあるので、私的に5人を選び出してみた。

■龍造寺隆信(1529~84)

 龍造寺隆信は肥前国の戦国大名として知られているが、キリスト教の布教には否定的だったという。それゆえ、フロイスの評価も芳しくなかった。「キリシタン教会の最も激しい敵であり、はなはだ暴虐な君主」との言葉は、フロイスが隆信を蛇蝎のごとく嫌っていた証左となろう。

 隆信はあまりの巨漢だったため、フロイスは隆信が6人担ぎの駕籠に乗っていたと記す。宗龍寺(佐賀市)に残る「龍造寺隆信像」(享保4年:1719)は、隆信の肥満ぶりを後世に伝えている。フロイスの感想は、あながち否定できないのかもしれない。

■武田信玄(1521~73)

 武田信玄は甲斐の戦国大名として知られ、フロイスが言うには「彼(織田信長)がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったという。「戦争においてはユグルタ(紀元前2世紀のヌミディア王で戦争が得意だった)に似たる人」と評価されていた。

 とはいいながらも、信玄は出家していたにもかかわらず、「毎日仏像を拝むが、信仰の願いは他国を支配する事」が日常だったという。また、信玄は家臣から畏怖されたものの、「わずかの失敗でも容赦なく殺す恐るべき人物」とフロイスは記す。いずれにしても、信玄はバリバリの仏教徒だったので、フロイスは嫌いだったようだ。

武田信玄。
武田信玄。提供:アフロ

■織田信長(1534~82)

 フロイスの信長に対する評価は、愛憎半ばである。「きわめて稀に見る優秀な人物」、「大いなる賢明さをもって天下を統治した者」という言葉は、キリスト教の布教を許可した信長への最大の賛辞である。

 一方、信長は禅宗、法華宗を信仰しており、それがフロイスにとって我慢ならなかった。フロイスが信長が神になろうとしたこと、本能寺の変後に信長の死体が見つからなかったことを批判して書いているのは、天罰が当たったとでも言いたげである。

 信長の人物像についても「自分以外の全ての者を見下しており上から物を話す」、「家臣の進言などはほぼ聞き入れず、それでいて決断力に優れ、多くの者が絶対君主かのように彼を畏れ従っている」とフロイスは独裁者ぶりを強調する。

 信長はキリスト教への良き理解者だったが、十分な支援が得られなかったので、フロイスは許せなかったのだろう。

織田信長。
織田信長。提供:アフロ

■明智光秀(?~1582)

 光秀と言えば、連歌や茶道に優れていたので、あたかも教養人のように思われている。しかし、フロイスの評価は、「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」、「裏切りや密会を好む」、「刑を科するに残酷」、「独裁的でもあった」などと評価が芳しくない。

 フロイスは本能寺の変直前において、信長が光秀を足蹴にしたとの記述を残す。しかし、その内容をつぶさに読んでみると、密室で行われたこと、秘密だったと書かれており、世上の噂を単に書き留めたにすぎない。

明智光秀。
明智光秀。提供:アフロ

■豊臣秀吉(1537~98)

 秀吉は天正15年(1587)に伴天連追放令を発布し、宣教師を日本から追放しようとしたのだから、その評価が低いどころか、ボロカスなのはいたしかたない。

 秀吉については「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた」、「極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた」、「抜け目なき策略家であった」、「彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた」など、何一つ良いことが書かれていない。

 おまけに、秀吉はわざわざ遠方から招き寄せた兄弟姉妹を惨殺した。この秀吉の兄弟姉妹とは、母・大政所が別の男と結ばれて誕生した子供だった。このことを記すのは『日本史』だけであるが、秀吉に対する執拗なまでに悪罵を放っているのは、悪意すら感じるほどだ。 

◎まとめ

 このような結果になってしまったが、諸大名に対する評価はあくまで「フロイス個人の評価」にすぎない。相当バイアスがかかっている可能性が高いのは、冒頭に示したとおりである。とはいえ、フロイスは日本におけるキリスト教の布教に命懸けだったので、反対する大名に辛口なのは仕方がないのだろう。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】