【戦国こぼれ話】こんなにたくさんある。豊臣秀吉の養子で関白だった秀次が切腹に追い込まれた理由
先日、静岡市が天正18年(1590)12月8日付徳川家康書状を購入し、話題になっている。宛先は、豊臣秀吉の養子で関白の豊臣秀次である。秀次は、なぜ切腹に追い込まれたのか考えることにしよう。
■豊臣秀次の悪行によるという説
最初に、さまざまな史料に書かれた説を検討することにしよう。注目すべきは、豊臣秀次の悪行が豊臣秀吉にバレたということだ。
太田牛一『太かうさま軍記のうち』によると、秀次は弓矢の稽古と称して人を射たり、鉄砲の練習と言っては農民を撃ったという。また、刀の試し斬りをするため人を斬った(「関白千人斬り」)。やがて、その悪行が秀吉に知られ、勘気に触れたという。
似たことを記すのがクラッセ『日本西教史』である。秀次は殺人に喜びを見出す性癖があり、罪人の処刑の際には進んで処刑人の役を務めた。罪人を台に寝かしたまま斬ったり、立たせたまま一刀両断に斬ったりするなど極めて残酷だった。また、妊婦の腹を裂いたとも伝わる。
小瀬甫庵『甫庵太閤記』によると、秀次は女人禁制の比叡山に女房らを伴い、その禁を破った。比叡山は殺生禁止だったが、狩りを楽しむなど遊興三昧で過ごした。比叡山は抗議をしたが、まったく耳を貸さなかった。
『川角太閤記』によると、菊亭晴季の娘・一の台は秀吉の側室になる予定だったが、その美貌を見初めた秀次は、秀吉に内緒で自分の側室とした。秀吉はこの事実を石田三成の讒言で知り、嫉妬に怒り狂って秀次を切腹させるため罪を捏造したという。
■秀次が謀反を企んだという説
次は、秀次の謀反の計画が秀吉に露見したという説だ。
『上杉家御年譜』によると、秀次は鹿狩りにかこつけて秀吉を聚楽第に招いたが、実は数万人の兵を整え、秀吉を殺害しようと計画していた。この情報を知った三成は、すぐに秀吉の耳に入れ、聚楽第に行かないように伝えたという。
小瀬甫庵『甫庵太閤記』によると、文禄3年(1594)に秀次と毛利輝元が誓紙を交わした際、三成と増田長盛が「謀反の疑いあり」と言い掛かりをつけ、ほかの問題もあわせて秀次を追及した。三成らの讒言により、秀吉は秀次に不信感を抱き、切腹に追い込んだという。
山科言経『言経卿記』文禄4年(1595)7月8日条には、「関白殿(秀次)と太閤(秀吉)との間は、去る3日から不和になった」と記されている。その背景は秀次の謀反であるとの風聞があり、両者の間には修復不可能なほどの事態が突発的に起こり、それが秀次に切腹を命じた遠因になったという。
■秀吉と秀次との確執
朝尾直弘氏によると、文禄4年(1595)2月に蒲生氏郷が亡くなった際、その遺領の扱いをめぐって、秀吉と秀次の見解は異なったという。秀吉はいったん遺領を没収しようとしたが、関白の秀次がそれを覆したので、2人は確執に及んだと指摘する。
三鬼清一郎氏によると、文禄元年(1592)、秀次は関白職を秀吉から譲られたが、太閤の秀吉と現職の関白である秀次との間には、日本国内の統治権の権限分掌をめぐる確執が生じたという。こうした対立が遠因となり、秀吉は秀次に切腹を命じたと指摘する。
西村真次氏によると、文禄2年(1593)に拾(秀頼)が誕生したので、秀吉は地位を秀頼に譲りたくなった。そこで、秀吉は疎ましくなった秀次に切腹を命じ、将来の禍根を取り除いたと指摘する。
■正親町天皇との関係から
渡辺世祐氏によると、文禄2年(1593)に正親町天皇が崩御したが、秀次は喪に服することなく、直後に鶴を食べたという。以後も遊興三昧の日々を送り、自邸の聚楽第で相撲を興行し、また『平家物語』を検校に語らせ、ついには鹿狩りを行うなどしたので、それらの理由が秀吉から切腹を命じられる原因になったという。
宮本義己氏によると、秀次には侍医がいたが、正親町天皇の侍医・曲直瀬玄朔(まなせ げんさく)を自宅に招き寄せたので、玄朔は正親町天皇の診察ができなくなった。これは、秀次の関白としての権力を濫用したものであり、失脚・切腹を命じられる遠因となったという。
■真相はいずれの説か
これだけ多くの説があるものの、実は明快な答えが得られていないのが現状だ。あるいは、それぞれの説の複合的なものが理由なのかもしれない。ただし、秀次が冒頭に記したような悪行をしたという点については、明確に否定して然るべきだろう。
なお、矢部健太郎氏によると、秀吉に秀次を切腹させる意思をはなく、秀次が自身の身の潔白を証明するため、あえて切腹におよんだと指摘されている。
秀次が秀吉から切腹を命じられた理由については、決定的な根拠史料がないので、今後も検討が必要である。