【戦国こぼれ話】『乙夜之書物』は本能寺の変の真相を知るうえで、信頼に足りうる史料なのか

『乙夜之書物』には、本能寺の変に関する新説が多々書かれているというが・・・。(提供:アフロ)

 5月8日(土)に放映されたTBS「世界ふしぎ発見」(本能寺の変 解き明かされる新たな真実)を楽しく拝見した。興味深かったのは、『乙夜之書物(いつやのかきもの)』なる史料によって、本能寺の変の真相が明らかになったということだ。以下、この点を考えてみよう。

■一次史料と二次史料

 本能寺の変に限らず、研究の鍵を握るのは、確実な史料(証拠)がどれだけ残っているかである。大別すると、史料には一次史料と二次史料がある。その違いはいかなるところにあるのだろうか。

 一次史料は同時代に発給された古文書あるいは日記、金石文などを指す。史料としての価値は高い。

 二次史料は系図、家譜、軍記物語など、後世になって編纂されたものである。素材は文書、口伝などであり、作成者の創作が入ることも珍しくない。作成された意図(先祖の顕彰など)が反映されていることなどから、史料的な価値は劣る。

 歴史研究では一次史料に拠ることを基本原則とし、二次史料は副次的な扱いとする。しかし、二次史料にまったく価値がないわけでもなく、作成された政治的・社会的・文化的な背景を考慮し、史料批判を行なって用いることもある。

 二次史料には『信長公記』のように、信頼性の高いものもあるが、一方で誤りが多く、信が置けない二次史料も少なくない。また、成立年が早いとか、名家に伝わるから信頼できるとは限らない。あくまで内容が問題である。ただ一般論で言えば、成立年の遅いものは、概して信頼性が低いといえる。

 本能寺の変に関しては、数多くの史料が残っているが、近世に成立した二次史料のなかには、かなり質の低いものもある。やはり、一次史料に基づくのが原則であるといえる。

■『乙夜之書物』とは

 では、最初に『乙夜之書物』(金沢市立玉川図書館近世史料館)について考えてみよう。

 『乙夜之書物』は、加賀藩の兵学者・関屋政春が執筆したものである。その成立は、寛文9年(1669)~同11年(1671)といわれている。内容は、政春が500前後の逸話を聞き取ったものである。

 番組の中では、新しく発見された史料のようにいわれていたが、実は、日本史や国文の研究者には、すでに知られていた史料であるという。つまり、厳密に言えば、新発見ではないことに注意したい。

 『乙夜之書物』が注目されるのは、本能寺の変の記述だけでなく、そのニュース・ソースである。本能寺の変の情報をもたらしたのは、明智光秀の重臣・斉藤利三の子・利宗である。利宗が話したことは、井上清左衛門が聞いて、政春に語ったのである。なお、清左衛門は利三の孫で、利宗の甥だったという。

 利宗が誕生したのは永禄10年(1567)といわれているので、本能寺の変の時点では数えで16歳である。父とともに出陣していても、おかしくない年齢なのはたしかだ。

 利宗が亡くなったのは正保4年(1647)のことなので、清左衛門はそれまでに本能寺の変の話を聞いたのだろう。それが、いつの時点のことなのかははっきりしない。

■果たして信頼できる史料なのか

 番組だけに限らず、『乙夜之書物』は報道でも話題になった。たとえば、光秀が本能寺に向かって出陣する際、誓詞血判状を認めたというのも一つだろう。また、光秀軍が本能寺を急襲した際、光秀は攻撃軍に加わらず、鳥羽(京都市下京区)に控えていたという説もある。

 番組内では、信長の最期の言葉が有名な「是非に及ばず」ではなかったことなども紹介されていた。ほかにも、信長が切腹する際、畳を壁に立てかけたとの記述も取り上げられていた。

 『乙夜之書物』は注目すべき史料なのかもしれないが、その記述の多くがほかの史料で裏付けられないことに難がある。さらに、その情報は政春が利宗から直接聞いたのではなく、甥の清左衛門からの又聞きであることもマイナス要素だ。あくまで二次史料であることには、注意すべきである。

 つまり、今の段階ですべてを「新説」あるいは「真説」とするには早計であり、さらに検討が必要ではないかというのが率直な感想である。少なくとも本能寺の変後、約90年経ってから成立した史料なので、扱いについては慎重さが求められよう。