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【戦国こぼれ話】太平寺にいた尼僧・青岳尼を奪った里見氏の鎌倉襲撃事件の真相とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
古都・鎌倉は古い寺院が数多くあり、観光地として多くの人々が訪れる。(写真:REX/アフロ)

 新型コロナウイルス対策の「まん延防止等重点措置」は、鎌倉市にも適用される。鎌倉市と言えば古い寺院が多く、太平寺もその一つだ。今回は太平寺の青岳尼(しょうがくに)を奪った里見氏の鎌倉襲撃事件について考えてみよう。

■青岳尼とは

 鎌倉公方の足利家は、戦国期に至って分裂と衰退を繰り返した。古河公方・足利政氏の子である義明は、小弓公方と呼ばれ、復権を画策していた。

 しかし、その努力は報われることなく、天文7年(1538)の第一次国府代合戦で古河公方・足利晴氏と北条氏綱の連合軍に敗れ、義明は無念にも討ち死にした。

 青岳尼は、義明の遺児で長女だった。生年と実名は不詳である。義明の討ち死に後、青岳尼は家臣とともに安房国の戦国大名・里見義尭のもとを訪れ、その庇護を受けるようになった。のちに出家して、鎌倉の太平寺に入寺したといわれている。

 太平寺は鎌倉尼五山の第1位の寺院で、その来歴をたどると、鎌倉時代に池禅尼(平忠盛の後妻)の姪が関わっていたことが知られる(妙法尼との説もある)。由緒ある寺院だったのは、たしかなことである。

 室町時代になって、鎌倉公方・足利基氏の妻・清渓尼が再興した。以後は、鎌倉公方・足利氏の娘が代々住持を務めるなどし、隆盛を極めたという。

 青岳尼がいつ頃から太平寺住持になったかは判然としないが、天文20年(1551)の記録で実在したことを確認することができる。おそらく父の菩提を弔いながら、平穏な日々を送ったに違いない。

■里見義弘の鎌倉攻撃

 弘治2年(1556)、里見義弘は北条氏の支配領域である鎌倉を攻撃した。もともと義弘は青岳尼を知っていたこともあり、太平寺を訪れると自分の妻になるように説得し、強引に還俗させようとした。

 義弘がこのような行動に出た理由として、青岳尼に恋心を抱いていたという説がある。あるいは、義弘と青岳尼は、もともと許嫁だったという説もある。

 義弘の説得に応じた青岳尼は、還俗して義弘とともに安房国に向かい、しばらくして義弘の正室になった。そして、2人は佐貫城(千葉県富津市)で暮らしたのである。

 義弘が青岳尼を強引に連れ去ったのか、2人が合意のうえで結婚したのかは判然としない。住持である青岳尼を失った太平寺は、のちに北条氏によって廃寺とされた。

 とにかく青岳尼と義弘の関係については、さまざまな謎がある。義弘は、古河公方・足利晴氏の娘を妻としていた。それゆえ、青岳尼は義弘と離別したとの説もある。

 また、青岳尼の伝記は義明の妹と娘の伝記が混同して伝わっており、義弘が弘治年間に鎌倉から連れ出して結婚したのは、義明の妹であるとの指摘すらある。

■青岳尼の死

 ところが、青岳尼の動向についてはわかっていない。一説では病弱だったこともあり、永禄年間の早い時期に亡くなったという。

 法号は智光院殿洪獄梵長大師といい、供養塔が青岳尼の菩提寺だった原岡の興禅寺(千葉県南房総市)と泉慶院(同館山市)にある。

 なお、青岳尼が天正4年(1576)3月に死亡したという説などがあり、青岳尼の生涯は未だに神秘のベールに包まれているようだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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