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【戦国こぼれ話】豊臣秀吉は、なぜ宇都宮国綱を改易したのか。その真相を探ることにしよう

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
宇都宮城址公園は、宇都宮氏の本拠だった。(写真:Tonic_M/イメージマート)

 コロナの影響で、賃金カットに解雇の報道が相次ぐ。困ったことである。戦国時代においても改易(所領没収)という処分があったが、今回は下野の大名の宇都宮国綱の例を取り上げ、なぜ豊臣秀吉が処分したのか考えることにしよう。

■宇都宮国綱と小田原討伐

 宇都宮氏は、文字通り宇都宮城(栃木県宇都宮市)を本拠とする大名である。永禄11年(1568)、宇都宮国綱は広綱と常陸国佐竹義昭の娘・南呂院の子として誕生した。幼名は伊勢寿丸という。天正4年(1576)に父が亡くなり、国綱は家督を継承した。

 国綱は下野北東部の那須氏、下総の結城氏、常陸の佐竹氏らと結び、後北条氏の北関東侵攻に備えた。何より頼みの綱は、甲斐の武田氏、織田信長、豊臣秀吉だった。しかし、下野の国衆は徐々に後北条氏に切り崩され、国綱を裏切ったのである。

 天正13年(1585)、国綱は後北条氏の激しい攻勢に耐え切れず、ついに本拠である宇都宮城を捨て、多気山城に移らざるを得なくなった。宇都宮城は平城で、防禦面が懸念されたからである。もはや、頼りになるのは、秀吉だけだったのである。

 天正17年(1589)、後北条氏は真田氏に属する名胡桃城を攻撃し、配下に収めた。これは秀吉の政策基調「惣無事」(私戦の禁止)に違反したので、ただちに後北条氏は討伐の対象になった。

 天正18年(1590)の小田原城攻撃において、国綱は秀吉に従って出陣し、本領の下野18万石を安堵された。まさしく、国綱は乱世を生き抜いたのである。

■国綱の改易処分

 慶長2年(1597)10月、国綱は秀吉によって、突如として改易処分を言い渡された。この一連の事件こそが、いわゆる「宇都宮崩れ」である。その理由は、近世後期に成立した『宇都宮史』に2つの説が紹介されている。

 1つ目の説は、浅野氏による検地の結果が大幅な増分となった(申告していなかった所領を把握した)。結果、これまでの国綱の所領高に虚偽があったとされ、秀吉の怒りを買ったというものである。秀吉は、嘘をついた国綱を許し難かったのである。

 2つ目の説は、宇都宮氏の家督を巡るものである。後継者のいなかった国綱は、秀吉の部将である浅野長政の子・長重を養子にとの申し出を拒否した。

 この間、後継者をめぐっては、家臣の芳賀氏らが関わってくるなど、家臣間争いの様相を帯びるようになった。これにより、国綱は長政や家臣と対立し、同年に秀吉から改易の処分を受けたという説である。

 もう一つは、宇都宮氏を支えてきた門閥の重臣・芳賀氏が国綱の側近の今泉氏と関係が険悪となり、両者は合戦に至った。これが秀吉に咎められたということになろうか。

 このように、国綱が改易に至った理由はいくつかあるが、真の理由については確定し難いようである。

■改易後の国綱

 改易処分を受けた国綱は、秀吉から朝鮮への出兵を条件として、活躍次第で宇都宮家の再興を許すといわれた。国綱は慶長の役に出陣して軍功を挙げるが、慶長3年(1598)8月に秀吉が病没したので、再興の話は流れてしまった。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、国綱は徳川家康と誼を通じて東軍に属したが、宇都宮家の再興は叶わなかった。その後、国綱は宇都宮家再興という本懐を遂げることなく各地を放浪し、慶長12年(1607)に江戸浅草の石浜で没した。

 なお、各地を流浪した国綱は京都で義綱をもうけており、義綱はのちに水戸の徳川頼房に百人扶持で召しだされた。国綱の妻・小少将は、徳川和子の乳母となった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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