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【戦国こぼれ話】戦争が勃発したとき、戦国大名はどのような情報伝達手段を使ったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
現代社会でスマホは必需品。あっという間に情報を伝達できる。(提供:アフロ)

 現代の情報伝達といえば、電子メール、電話など一瞬にして伝わるものが大半だ。しかし、戦国時代はアナログな情報伝達手段しかなかった。戦争が勃発したとき、戦国大名はどのような情報伝達手段を使ったのか。

■陣触れという方法

 戦国大名は合戦の開始前、陣触れと呼ばれる命令によって将兵に動員を掛けた。陣触れは書状や口頭によって伝達されたが、ここでは書状によるものについて、いくつか例として確認しておこう。

 年未詳7月15日、北条氏は下野壬生(栃木県壬生町)に出陣すべく、清水氏に陣触れを行った(「正木文書」)。当時の北条氏は、佐竹氏を中心とする北関東の大名と交戦状態にあった。宛先の清水氏は、伊豆に本拠を置いた北条氏の家臣である。陣触れの内容について、次に概要を解説しておこう。

 陣触れの冒頭には「陣触」とあり、続けて「東の敵(北条氏と敵対する北関東の諸大名)が壬生に軍事行動を展開したとの報告があったので、思いがけず出陣することになった。すぐに出陣の準備をし、軍勢も相応に準備すること」といった内容が書かれている。

 急な出陣だったので、要点をまとめて出陣を要請したものだ。急いでいるとはいえ、相応の軍勢を引き連れるように求めているのは重要である。単身ではなかったのだ。

 天正18年(1590)1月4日付の北条氏規の陣触れは、家臣の海老名五郎右衛門に宛てたものである。氏規は氏康の三男で、当時は韮山城(静岡県伊豆の国市)主を務めていた。この陣触れは、やはり来るべき豊臣秀吉による小田原征伐に備えてのものである。以下、内容を確認しておこう。

 清水氏への陣触れと同様に「陣触」の語に続けて「氏規の被官は御崎小田原(神奈川県小田原市)に移ったので、妻子・郎党・兵粮・荷物以下を小田原に入れました。あなたも小屋掛をして務めを果たし、尽力をするように」と書かれている。

 小屋とは、仮設の小さな野営施設である。小田原城内にすべての軍勢を収容するのが難しかったので、将兵は広大な敷地に小屋を築いて、そこでの生活を余儀なくされたのである。

■陣触れの具体的な内容

 もっと具体的な内容の陣触れもある。天正17年(1589)12月7日、北条氏は同じ清水氏に陣触れを行った(「平岡文書」)。内容は、やはり来るべき豊臣秀吉による小田原征伐に備えてのものだ。陣触れは5ヵ条にわたっており、内容は次のとおりである。

(1)関東に豊臣軍が攻め込んでくるので、迎え撃つ準備をしてほしい。以前から出陣が多くて申し訳ないが、油断している場合ではないので許していただきたい。軍勢の人数は、厳密に調えてほしい。

(2)準備する期限については、改めて伝える。

(3)年内は日にちが残り少ないので、戦いはおそらく越年するだろう。

(4)武具の綺羅(華やかさ、美しさ)については、今回は不問とする。とにかく戦いを継続できるように、準備をすることが重要である。

(5)普請道具(土木工事などの道具)も持参すること。

 (1)については、これまでと同じである。(2)(3)は出陣の時期に関してであるが、暮れが押し迫ると翌年に持ち越すことは、ほかの戦国大名の例でも見られる。

 (4)は、軍装をめぐるものである。この点は後述するが、将兵は好きな格好で来てよいのではなく、服装などにも一定の決まりがあった。しかし、今回は事態が切迫しているので、不問にしたのである。(5)は砦や柵、塀を作るため、工事用の道具を持参するよう求めたものである。

■陣鐘と法螺貝

 合戦がはじまる合図として用いられたのが、陣鐘や法螺貝である。この合図をもとにして、将兵らは当主のもとに馳せ参じた。陣鐘や法螺貝とは、どういうものなのだろうか。

 神奈川県藤沢市の遊行寺には、延文元年(1356)に鋳造された銅鐘がある。この由緒をたどると、遊行寺は伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦道寸との交戦で全山が焼失し、銅鐘も北条氏によって小田原に持ち去られた。

 その後、銅鐘は陣鐘として用いられたが、寛永3年(1626)12月に戻ってきたのである。このように、陣鐘は寺院の鐘を転用した例が少なくない。

 長野県佐久穂町の自成寺は、武田信玄が寄進したという「明応八年(1499)未十月吉日作之」の銘がある鐘を所蔵する。こちらも、陣鐘として用いられた。長野市松代町の真田宝物館にも、「弘治三年(1557)八月日」の銘を持つ陣鐘がある。明智光秀が坂本城(滋賀県大津市)で用いた陣鐘は、菩提寺の西教寺(同上)に所蔵されている。

 法螺貝は、密教儀式の法具だった。修験道では行者が持つ道具の一つで、山岳修行の際に猛獣を追い払うために用いた。法螺貝の音はよく通るので、出陣の合図としては最適だったのだろう。しかし、法螺貝を鳴らすのは非常に難しく、一定の訓練が必要だったと言われている。

 口頭や書状によって陣触れを行うのは、具体的に指示を出す点で有効だったが、急な敵の来襲などの場合は陣鐘や法螺貝が効果的だったのである。

 このように戦国時代の情報伝達はアナログだったかもしれないが、それなりに創意工夫を重ねていたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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