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【戦国こぼれ話】上杉景勝の家臣・直江兼続の兜の前立ての「愛」には、どんな意味があるのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
直江兼続といえば、兜の前立ての「愛」があまりに有名である。(提供:アフロ)

 巨人の直江大輔選手が昨年10月の手術を経て、球団と再契約を結んだ。活躍を期待したい。ところで、直江選手の好きな歴史上の人物は、直江兼続という。兼続の兜の前立ての「愛」には、どんな意味があるのか考えてみよう。

■直江兼続の誕生

 直江兼続は、永禄3年(1560)に越後国上田城主・長尾政景の家士・樋口兼豊の子として誕生した。もとは重光と名乗っていたが、謙信の死後に景勝に仕えると、越後の名門直江家の名跡を継ぎ、名を兼続と改めた。以後、兼続は景勝の側近中の側近として重んじられるようになった。

 兼続は領国内の治世を良く行ったが、戦いの舞台でも大活躍をした。天正18年(1590)の小田原北条氏の討伐などはもちろんのこと、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では徳川家康の会津討伐を凌ぐことで、その優れた手腕を発揮した。

 ところで、兼続の兜には、必ず「愛」という文字を象った前立が用いられた。当時、戦国武将の前立には、動植物、神仏、文字などが用いられていた。戦国武将は戦いでの勝利を願い、前立にその熱い思いを表現したのであり、自らの戦う姿で自身を鼓舞するものであった。

 その中でも「愛」と言う文字は、兼続が独自に用いたものだった。では、この「愛」には、いかなる意味が込められていたのであろうか。

■「愛」とは何か

 愛には「人を愛する」など、愛情という意味がある。テレビや小説などで兼続を扱う場合は、「民衆に対する仁愛」という意味で解釈していることもある。「仁愛」や「愛民」の精神を兼続が持っていたという解釈である。しかし、そうした考えは今や俗説として退けられている。

 現在では軍神である「愛染明王」または「愛宕権現」にちなんだもの、という解釈が主流を占めている。それはちょうど、上杉謙信が軍神である毘沙門天の「毘」の字を前立にあしらったのと同じ意味である。愛染明王は仏教の信仰対象であり、頭の獅子の冠はどんな苦難にも挫折しない強さを表現している。

 戦いにおいて重要なのは、何事にも屈しない強い忍耐力であり、兼続は燃えたぎる闘志を愛染明王に託したのであろう。また、愛宕権現は山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、地蔵菩薩を本地仏とした。中でも愛宕山白雲寺は、勝軍(将軍)地蔵を本尊としたため、戦国時代になると各地の武将が軍神として信仰を深めた。

 つまり、兼続はこうした軍神への信仰を「愛」という文字に込め、戦いでの勝利を祈願したのである。そして、そのような厚い信仰心は、かつて仕えた謙信の影響を強く受けていると考えられる。

■兼続の闘志

 晩年の兼続は、景勝のもとで上杉家を盛り立てた。また、上杉家が豊臣家方についたときには、豊臣秀吉からも相当にかわいがられたようである。天正16年(1588)に兼続が豊臣姓を授けられ、山城守を与えられたことは、その事実を証明している。

 しかし、秀吉の没後、家康が台頭すると事情が異なってくる。慶長5年(1600)、上杉家が新しい城を築城すると、「謀叛の疑いあり」と家康から指弾された。

 これに対し、家康に反駁するために送られたのが「直江状」である。現在では偽文書説もあるが、兼続が家康に書状を送ったのは事実であり、激烈な文面は家康を激怒させるに十分であった。

 このことが原因で会津征伐そして関ヶ原合戦につながったのであるが、兼続の内に秘めた軍神のごとき闘志をうかがい知ることができるのである。

 怪我を克服した直江大輔選手には、ぜひ兼続のように大活躍してほしいものだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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