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【中世こぼれ話】空気が読めない無能な将軍・足利義政。批判された利己主義的な新室町邸の造営

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
五七桐は、足利将軍家の家紋。後醍醐天皇から下賜された。(提供:アフロ)

 政治は難しい。世の中の動きを的確に捉え、すぐに対策を施さないと、政治家は国民から見捨てられてしまう。コロナ対策もその1つだ。15世紀半ばに将軍を務めた足利義政は、まったく世間の空気を読めず、次々と愚策を行った。その一連の流れを検証してみよう。

■15世紀半ばの飢饉、兵乱

 興福寺大乗院(奈良市)門跡の尋尊(じんそん)は『大乗院寺社雑事記』の中で、飢饉や餓死者の問題に加え、河内・紀伊・越中・越前で兵乱があることを憂いた。特に兵乱に関しては、義政の政治手腕に疑問を呈している。

 後世に成立した『応仁記』は、公家や武家そして庶民までもが奢侈を好んだために応仁・文明の乱が起こったと記している。この時代の雰囲気として、奢侈を好むようになっていたことがうかがえ、武家も公家も浮かれており、庶民もまた何らかの恩恵を受けていたのであろう。

 一方で『応仁記』は、地方の疲弊した農村の様子を伝えている。地方では逆に守護が諸国の農民に課役をかけ、段銭という税金を賦課すると、みんな田畠を捨てて物乞いになったという。為政者による過酷な支配の実態であり、残ったのは荒廃した田畠のみだった。

 このような状況にあって、義政の政治的な手腕に疑問を感じていたのは、むろん尋尊だけではない。後花園天皇も、そのように感じていたのである。

 『長禄寛正記』は、長禄・寛正の飢饉で庶民が苦しんでいるにもかかわらず、義政は花の御所で日々遊興に明け暮れていたと記している。そこで、後花園は義政の行動を憂慮し、漢詩をもって諌めた。義政は後花園の漢詩を読んで、自らの行動を慎んだという。この話は、『天地根源図』にも記されている。

 話はこれだけではない。この時期に行われた義政の花の御所造営工事は、周囲を驚かせるほどの規模だった。

■無謀な室町邸の造営

 当初、義政は御所を烏丸殿(京都市上京区)へ定め、室町殿へ移住する長禄3年(1459)までの16年間を過ごした。烏丸殿は、義政の母・日野重子の従兄弟である烏丸資任(すけとう)の邸宅である。

 しかし、烏丸殿では将軍御所の設備が不十分であったらしく、文安2年(1445)6月に旧室町殿から御所寝殿などを烏丸殿に移設する作業を行った(『斎藤基恒日記』)。

 作業が完了したのは、4年後の文安6年(1449)のことだった(『康富記』)。移設作業には、いうまでもなく莫大な経費がかかったものと推測される。

 ところが、烏丸殿へ御所寝殿を移してから9年後の長禄2年(1458)11月、義政は突如として旧室町殿(京都市上京区)に新邸の建築を決定した。烏丸殿の山水庭園工事が完了した直後でもあり、理由はよく分かっていない。次に、義政の御所の造営過程を確認しておこう。

 長禄2年(1458)11月、義政の指示によって、新室町邸の工事開始が決定した(『在盛卿記』など)。そして、永享3年(1431)の足利義教の例にならって、管領・細川勝元と侍所所司・京極持清が普請始を行い、惣奉行は山名持豊と畠山義忠が担当した。工事は寛正元年(1460)まで丸2年を要し、造営時期は全国的な飢饉と重なっていた。

 室町邸の造営について、周囲はどのように感じていたのであろうか。

■義政に政治家の資格なし

 興福寺別当を4度も務めた経覚は、「義政がにわかに室町殿跡に移ると聞いて、多くの人が天を仰ぐほど驚いた」と伝えている(『経覚私要抄』)。

 同じく『大乗院寺社雑事記』の記主である尋尊は、室町殿新築について「及ぶものがないくらいの天下の大儀である」と感想を漏らし、「この前に造作した山水庭園は無駄であった」と嘆息している。

 この驚きというのは、急であったことはもちろんであるが、むしろ全国的な飢饉の中で、莫大な費用を要する新邸建築にあったことは想像に難くない。

 2年後に完成した新邸は、山水庭園に舟を浮かべ、水鳥を放つなど贅を尽くした豪華絢爛なものであった(『碧山日録』)。あえて義政が新邸建築を行った理由を推測すると、一つには義教の例にならって、御所を移したと考えられる。

 幸か不幸か、歴代将軍の「嘉例」にならったのだ。そして、もう一つは将軍権力の誇示である。こうして自らの権力を誇示しようとした義政であったが、周囲からは白い目で見られ、後花園には諌められる始末だった。

 こうした事態を見る限り、義政は当時の政治思想で重要視された撫民仁政主義を遂行しうるような手腕を持たなかったと考えられる。撫民仁政主義とは、武家政治を正当化したイデオロギーであり、撫民を政治の要諦とするものである。

 民意の支持をイコール天意の反映と捉え、民意の支持を為政者としての要件とする。逆に、為政者が民意の支持を得られなければ、為政者が交代する放伐革命を是認する考えである。

 撫民仁政主義は現代にも通じる考え方で、政治家は常に民衆(国民)のことを考え、適切な政策を実施なければ、見放されてしまうのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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