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【「麒麟がくる」コラム】徳川家康は織田信長との関係が悪かったのか否かを検証する

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長の盟友だった徳川家康。実は仲が悪かったのだろうか?(提供:アフロ)

■織田信長と徳川家康の関係

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかで、徳川家康が織田信長に対して敵対心を露わにするシーンがあった。また、一説によると、逆に信長が家康を討とうとしたという説がある。本当に2人の関係は良くなかったのだろうか。詳しく検証してみよう。

■対等な関係からの変化

 当初、織田信長と徳川家康の関係は対等であったと指摘されている。信長が家康に軍事援助を求める際は、将軍・足利義昭を介する必要があった。家康は、義昭と直接コンタクトできる関係にあったからだ。

 したがって、家康は義昭の命を優先し、信長の意向はそれよりも優先度が落ちたという。つまり、もともと信長と家康が結んだ同盟とは、単なる領土画定の同盟に止まっており、軍事同盟までは含まれていなかったと指摘されている。

 しかし、天正元年(1573)に足利義昭が信長によって京都を追放されると、事態は急変した。これまで信長と家康は対等な関係であったが、家康は信長の臣下へと立場が変わったのである。

 以降、家康は信長に従属を余儀なくされた。信長は天正3年(1575)の長篠の戦いで、家康に国衆の一人として先陣を命じた(『信長公記』)。家康が国衆の1人と認識されていたのだから、信長の配下にあったのは明確である。

■その後の信長と家康の関係

 天正9年(1581)1月、信長は配下の水野直盛と水野忠重らを番手(城で警護に当たる兵士または城番)として、かつて家康が築いた遠江の横須賀城(静岡県掛川市)に遣わした(『信長公記』)。

 信長は遠江を自らの領国と認識していたので、わざわざ番手を横須賀城へと派遣した。遠江は実質的に家康が領有していたが、家康は信長の配下にあったので、番手を遣わしたと解釈することができる。

 翌天正10年(1582)3月に信長が武田氏討伐を開始した際、家康に駿河口の大将を任せた(『信長公記』)。これも家康が信長の配下にあったからであり、従わざるを得なかった。

 結果、家康は信長から駿河国を与えられたが、それは両者の主従関係を示すものだった。やはり、2人の協力関係は堅固なものがあったのだ。

■用済みではなかった家康

 武田氏の滅亡後、家康が用済みになったかと言えば、決してそうとは言えないだろう。越後の上杉氏や関東に覇権を築いた北条氏は、強力な相手だった。

 その後、さらに日本各地の平定を進めるならば、東北の諸大名なども視野に入るだろう。そうなると、家康の利用価値は十分にあったと考えられる。

 つまり、家康は信長が領土拡大戦争を行ううえで貴重な戦力であったといえ、信長が家康を討つ理由などない。かえって今後のことを考えると、デメリットのほうが大きいのである。

 大河ドラマ「麒麟がくる」では、家康の部下が信長を鷹狩りの際に殺そうと考えたようだが、残念ながら両者の関係は強固だったようだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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