【「麒麟がくる」コラム】明智光秀は家臣の斎藤利三を通して、土佐の長宗我部元親とつながっていた

明智光秀は長宗我部氏の取次を担当し、家臣の斎藤利三を通して強い関係にあった。(提供:アフロ)

■織田信長と長宗我部元親

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかでは、まだ明智光秀と土佐の長宗我部元親との関係が描かれていない。光秀は長宗我部氏の取次を担当しただけでなく、家臣の斎藤利三を通して強い関係にあったという。今回は、その点について触れておこう。

■『元親記』という史料

 明智光秀と長宗我部氏との関係を探るうえで重視されたのは、『元親記』という史料であり、かなり詳しく実情が記されている。

 『元親記』という史料は、どのように評価されているのだろうか。『元親記』は、寛永8年(1631)に長宗我部氏の旧臣・高島孫右衛門正重が長宗我部元親の33回忌に執筆した書物である。

 長宗我部氏が事実上滅亡したのは、慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦後なので、31年後の成立である(元親の子・盛親は大坂夏の陣後に刑死)。

 これまでの長宗我部氏研究では、成立年が早く長宗我部氏の近臣の手によって書かれたものであることから、信頼できる二次史料であるとして積極的に活用されてきた。

 とはいえ、こうした編纂物は執筆者の意図があって書かれているので、史料上の偏りが少なからずある。また、記憶違い等々も多分に反映されているので、全面的に信を置くことができず注意が必要である。

■複雑な関係

 『元親記』には、織田信長が元親の子・信親に偏諱(名前の一字を与えること)を授与した状況が克明に記されている。奏者(取次役)が光秀であったこと、その家臣・斎藤利三が元親の小舅(娘は元親の正妻)だったこと、利三の兄・石谷頼辰が光秀の使者を務めたことなども記されている。

 そこで、問題となるのは、元親と光秀および光秀の家臣の人間関係あるいは婚姻関係である。長宗我部元親の妻は、室町幕府奉公衆である石谷頼辰の妹だった。

 石谷光政(頼辰の養父)と頼辰が幕府の奉公衆であったことは、『永禄六年諸役人附』(室町幕府の奉公衆などの名簿)で確認することができる。

 そして、頼辰は光秀の家臣・斎藤利三の兄でもあり、のちに石谷氏の養子になったことが指摘されている。つまり、明智、斎藤、石谷、長宗我部の4者は、主従関係や婚姻関係で結ばれていたことが判明する。

 ただし、大変残念なことに、元親が石谷頼辰の妹を妻に迎えた理由が明らかになっておらず、この点は今後の課題として検討が必要である。

 『美濃国諸家系譜』を見ると、利三の兄は「某 石谷兵部少輔」と記されており、明智光秀に仕えていたと注記されている。「某」とあるとおり、実名は記されていない。

 ただし、利三の兄が光秀に仕えていたのか否かは、たしかな史料では確認することができない。また、利三の生母は、光秀の叔母であったといわれている。

 光秀と利三は、姻戚関係にあった。明智、斎藤、石谷の3者の血縁関係もまた、非常に複雑に絡み合っていたのは重要なことである。

 もちろん、光秀が長宗我部氏の取次(仲介役)を担当したのは、家臣をも含めた濃密な関係があったからであると考えられる。

 信長が元親と交渉する際、まったく長宗我部氏と無縁な人物を起用するよりも、何らかの人間関係のある人物を登用するのは当然といえよう。

 残り少なくなった大河ドラマ「麒麟がくる」で、この問題はどう展開するのだろうか?