【「麒麟がくる」コラム】織田信長と長宗我部元親との関係とは。両者の強い結びつきを探る

織田木瓜は織田家の家紋。織田信長は長宗我部元親と良好な関係を築いていた。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

■織田信長と長宗我部元親

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかでは、まだ織田信長と土佐の長宗我部元親との関係が描かれていない。このあとで信長は元親との「四国切り取り自由」の約束を撤回したので、両者の関係は悪化する。そこには、明智光秀も大いに関係した。今回は、その前段階について触れておこう。

■取次を命じられた明智光秀

 明智光秀は、信長から土佐の長宗我部元親の取次を命じられた。光秀が取次に起用された理由は、家臣・斎藤利三の弟・石谷頼辰の妹が元親の妹であったからだといわれている。

 信長は長宗我部元親に「四国は切り取り次第である」(『元親記』)と約束したが、のちに信長は前言を撤回し、元親の四国統一を認めなかった。

 それゆえ、信長と元親の関係は悪化し、取次を担当した光秀は立場が悪くなり、そのことが本能寺の変の原因の一つになったという説がある。

 光秀と本能寺の変を語るうえにおいて、信長による四国政策の変更(四国切り取り自由の撤回)は避けることができない重要なテーマである。

 信長の四国政策の変更によって、光秀の立場が悪くなった点に関しては、多くの研究者によって検討されてきた。しかし、関連史料が乏しいゆえに、多くを『元親記』などの二次史料に頼らざるを得なかったという事情があった。

■「石谷家文書」の発見

 ところが、近年になって「石谷家文書」が紹介された。「石谷家文書」は室町幕府奉公衆を務めた石谷光政・頼辰親子二代にわたる文書群で、全3巻47通もの貴重な史料群である。とりわけ中世史料のが乏しい、土佐の戦国史を解明するうえで重要な史料群であるといえよう。

 「石谷家文書」の発見時には、マスコミであたかも本能寺の変の謎が解明されたかのように報道されたが、それは正確な説明と言えない。

 「石谷家文書」により、本能寺の変に至る信長と元親との交渉の一端が解明され、これまでの二次史料に基づく俗説を改めたのは事実である。

 ただし、残念ながら「石谷家文書」には、本能寺の変のさまざまな謎を解く情報(光秀が変を起こした理由)は含まれていない。その点は重要なので、あらかじめ申し述べておきたい。

■長宗我部元親の動向

 信長が畿内周辺から中国方面に目を向けた頃、土佐に本拠を持つ長宗我部元親は四国で覇を唱えるべく、積極的に軍事行動を行っていた。

 天正2年(1574)、長宗我部元親は一条兼定を豊後国に放逐すると、翌年には国内の有力領主層を動員して、念願の土佐統一を成し遂げた。

 さらに天正4年(1576)から伊予、讃岐、阿波へと侵攻し、四国統一を目指したのであった。その際、元親は信長と結び、戦いを有利に進めようと考えたのである。

 両者が強力な関係を結んだ事例として、天正3年(1575)に比定される10月26日付の信長書状(元親の子息・信親宛)によって、信親が偏諱(信長の「信」字)を与えたことがあげられる(「土佐国蠧簡集」。年次比定は後述)。

 「信」字は織田家の通字でもあることから(信長の父は信秀)、信長がいかに長宗我部氏を重視していたかわかる。主君が家臣に名前の一文字を与え、紐帯を強めたことは、当時広く見られたことである。

■信長の偏諱授与

 ところで、信長の偏諱授与については、これまで天正3年(1575)10月のことと考えられてきたが、「石谷家文書」の出現により年次が改められた。

 「石谷家文書」の年未詳12月16日付の元親書状(石谷頼辰宛)には、当時まだ弥三郎と名乗っていた信親に対して、信長から「信」字が与えられたと記されている。

 この書状には、信長が摂津・有岡城の荒木村重を討伐するため出陣した旨が記されているので、天正6年(1578)に比定された。

 したがって、「土佐国蠧簡集」所収の信長書状は、天正6年(1578)に比定されるべきであると指摘されている。「土佐国蠧簡集」所収の信長書状によると、信親は偏諱を与えられると同時に、阿波での在陣を認められた。

 同書状の末尾には、「猶、惟任(光秀)申すべく候也」とあるので、このとき取次を行ったのが光秀だったことがわかる。光秀は、長宗我部氏担当の取次だったのだ。

 実は、このあとで信長が四国政策を変更するのだが、その点は改めて述べることにしよう。