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【「麒麟がくる」コラム】大河ドラマのなかでは語られなかった京都支配と明智光秀のこと

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都伏見稲荷。明智光秀は村井貞勝とともに京都支配を担当していた。(写真:アフロ)

■京都支配と明智光秀

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかでは取り上げられていなかったが、明智光秀が京都支配を行っていたことは非常に重要である。

 以下、京都支配と明智光秀について考えることにしよう。

■「天下所司代」村井貞勝と明智光秀

 天正元年(1573)に織田信長が義昭を京都から追放すると、代わりに京都を支配する必要が生じた。そこで、信長によって京都所司代に任命されたのが、重臣の村井貞勝である。

 京都所司代の職務とは、公家や寺社の所領などの問題、京都市中の行政や司法などだった。『信長公記』には、貞勝を「天下所司代」に任命したと記す。この場合の天下とは日本全国でなく、京都を中心とした畿内ということを意味する。

 貞勝とともに京都支配を担当したのが、明智光秀である。光秀と貞勝は、「両代官」と称せられた。2人による京都の支配は、天正3年(1575)前半頃まで続く。

■光秀と貞勝が連署して発給した文書

 光秀と貞勝が連署して発給した文書の初見は、天正元年(1573)12月16日のものである。(「妙智院文書」)。内容は、妙智院(京都市右京区)領の安弘名について、帳面に任せて住持の策彦(さくげん)和尚に年貢を納めるよう、西院(妙智院)の小作人に命じたものである。

 小作人に年貢を納めるよう命じたことは、光秀と貞勝が連署して策彦にも伝えられた。貞勝が日下(にっか。日付の下)に署判を加えているので、この件の実務を担当していたと考えられる。

 天正2年(1574)12月21日、光秀は貞勝と連署し、賀茂惣中に文書を発給した(「賀茂別雷神社文書」)。内容は、賀茂寺社領の六郷(河上、大宮、小山、岡本、中村、小野。京都市北区)および各地に散在する所領について、信長の朱印状に任せて安堵するというものである。

 この場合は、光秀が実務を担当していたと考えてよいだろう。

■山城守護・原田直政

 天正3年(1575)7月7日には、光秀と貞勝に加えて、原田(塙)直政の3人連署による奉書が発給された(「壬生家文書」)。内容からわかるのは、壬生氏が支配する野中郷の畠3ヵ所に関しては、証文に任せて、一反分は黒瀬なる人物に作職を与えていたことだ。

 なお、残りの分についても、悉く申し付けるようにという信長の意向だったので、その旨を3人連署で壬生朝芳に伝えている。

 この件では、山城守護の直政が関わっているのが興味深い。京都支配は、洛中を貞勝が、北部を光秀が、南部を直政がそれぞれ支配を担当していたという説がある。ただ、事例が乏しいこともあり、そうとは決して言い難い面もあるので、今後の課題であろう。

 なお、原田直政は天正4年(1576)5月3日に本願寺との戦いで戦死した。

■改姓した光秀

 上記の史料(「壬生家文書」)に関しては、光秀が姓を明智から惟任(これとう)に改めており、その点について興味深い指摘がある。

 天正3年(1575)7月3日、信長は光秀に対して、惟任日向(守)を名乗らせた(『信長公記』)。惟任が九州の名族の姓であったことから、信長は光秀に日向守を名乗らせたのは、九州方面への侵攻をすでに考えていたからであるという。

 しかし、近年の受領官途の研究を参考にすれば、受領官途名と支配地域は必ずしも一致しない。九州を意識した姓や官途を光秀に与えているが、遠い将来の可能性とはいえ、この指摘には未だに検討の余地があるのではないだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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