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【「麒麟がくる」コラム】完全にスルーされた長篠の戦いとは、どういう戦いだったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
長篠の戦いは鉄砲を用いた織田軍の軍事革命だといわれていたが、トーンダウンした。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

■スルーされた長篠の戦い

 大河ドラマ「麒麟がくる」の第39回「本願寺を叩け」では、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が対決した長篠の戦いが完全にスルーされていた。「織田・徳川連合軍の鉄砲隊」と「武田軍の騎馬隊」が激突した長篠の戦いとは、どういう戦いだったのだろうか。

■注目すべき長篠の戦い

 天正3年(1575)5月の長篠の戦いでは、織田・徳川の連合軍が新戦法の「鉄砲3000丁による3段撃ち」を用い、当時最強の「武田の騎馬軍団」を撃破したとされてきた。

 戦いの結果、武田軍は重臣らを失うなど大敗を喫した。しかし、ここで武田氏は滅亡したのではなく、その後、7年にわたって存続した(天正10年<1582>3月に滅亡)。

 日本軍事史上、長篠の戦いは特筆すべき合戦だったといわれているが、それらの根拠は二次史料(後世に成った編纂物)に書かれたものであり、見直しが進められている。

 最近の長篠の戦いの研究では、用いる史料として『信長公記』をもっとも重視し、ほかの質の低い軍記物語などの二次史料の記述を否定した。

 そして、子細に検討した結果、3列に並んだ鉄砲隊による交代射撃は不可能であること、実際の戦闘は騎馬でなく下馬して行われたという理由を挙げ、上記の通説が否定されている。

 しかし、別の研究では、次のとおり反論が行われた。

(1)東国の戦国大名には騎馬衆が存在し敵を混乱させていたこと。

(2)「3段撃ち」とは3ヵ所に配置された鉄砲衆が輪番射撃を行ったこと。

(3)当時の騎馬衆による突撃は正攻法だったこと。

(4)勝敗を決したのは織田軍の鉄砲の数が武田軍のそれを上回ったからだったこと。

 このように、最近の研究では従来説や二次史料の記述を鵜呑みにせず、長篠の戦いを再検証している。もう少し具体的に確認しておこう。

■3000丁の鉄砲は本当か

 改めて、信長軍の3000丁の鉄砲部隊の3段撃ちについて考えてみたいと思う(なお、『信長公記』の写本によっては、1000丁と書かれているもので申し添えておきたい)。

 永禄11年(1568)に織田信長が足利義昭を推戴して上洛した際、鉄砲の弾の原材料(鉛)と火薬の原材料(硝石)を安定的に確保するため、商都の堺(大阪府堺市)を配下に収めようとした。信長は鉄砲の重要性を認識していた。原材料の中には、日本で産出しないものもあったからだ。

 ところが、現実的な問題として、信長軍が3000丁の鉄砲部隊を1000丁ずつ3部隊に分けて、代わる代わる撃つ訓練をしていたのかという疑問が残る。

 織田方の将兵は、兵農分離を遂げた武士専業だったといえないという。狙撃手の技量がばらばらのなかで、1000人が一斉に代わる代わる射撃をすることは難しいのではないだろうか。

 火縄銃は今の鉄砲やライフルなどと違って、火縄に着火してから発砲するので、少々のタイムラグが生じる。拡声器もない中、将兵が発射のタイミングで息を合わせるのは、かなり困難だったに違いない。

 『信長公記』によると、鉄砲隊は各部将の配下から集められたもので、1000人の鉄砲隊に対して、5人の指揮者がついたという。

 つまり、この1000人の鉄砲隊が迎撃態勢を取り、敵を射程圏内に収めたときに射撃し、敵の状況に応じて代わる代わる撃ったというのが現実的だったと考えられる。

■武田氏騎馬隊は存在したのか

 武田氏の騎馬隊の存在は、疑問視されている。武田氏は騎馬隊を持ち、織田・徳川連合軍の陣営に突撃を繰り返し、最終的に3000丁の鉄砲部隊の前に屈したというが、これは史実なのだろうか。

 そもそも武田氏の将兵が、騎馬を使った専門的な訓練を受けたとは考えにくい。当時はまだ兵農未分離の時代であり、上層の家臣以外は平時は農業に携わっていたのが現実だったに違いない。

 つまり、いかに将兵たちが馬を乗りこなすのには慣れていたとはいえ、専門的な訓練を受け、かつ組織だった騎馬軍団なるものが存在したのかは疑問であると言わざるを得ないのだ。

 当時は、馬を降りて戦うのがセオリーだったという。馬に乗ったままで刀や槍を振るう例もあったが、馬は高価な乗り物だったので、戦いで死ぬことが危惧された。したがって、降りて戦うことが多かったといわれている。

 さらに重要なことは、馬は臆病で扱うのが非常に難しい動物だった。馬防柵に体当たりすることは、とても馬が怖がってできなかった可能性が高い。

 しかも、日本固有の馬は、体長が120センチメートルほどの小型馬だ。馬防柵に激突してなぎ倒すのは、きっと難しかったに違いない。

 つまり、現実的に考えてみると、馬が大軍で陣営に押し寄せ、次々と敵兵や馬防柵に体当たりして倒すというのはあまり現実的な戦法といえないのではないだろうか。

■乏しすぎる史料

 結局、長篠の戦いの具体的な様相を探る一次史料はほぼ皆無で、二次史料に頼らざるを得ない。したがって、拠るところの二次史料の徹底した史料批判が重要であり、近年ではそうした作業が丹念に行われている。

 いずれにしても、信長の鉄砲による「3段撃ち」が戦国時代における「軍事革命」という評価は、トーンダウンしたようで、「3段撃ち」には否定的な見解を持つ人が少なくない。

 武田氏の騎馬軍団についても同じだ。ただし、長篠の戦いをめぐる論争は現在も続いており、今後の動向が気にかかる。そのカギを握るのは、やはり良質な史料になるのではないか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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