■蘭奢待の切り取り

 大河ドラマ「麒麟がくる」(第37回)では、とうとう織田信長が正親町天皇の許可を得て、正倉院の蘭奢待を切り取った。蘭奢待は貴重な香木だったので、信長の喜びは一入だったに違いない。なお、蘭奢待そのものについてはすでに書いているので、こちらをご参照いただきたい。

 では、信長による蘭奢待の切り取りは、これまでどのように評価されてきたのだろうか。

■蘭奢待切り取りの経緯

 天正2年(1574)3月28日、信長は蘭奢待を5片切り取った(『多聞院日記』)。ただし、『年代記抄節』という史料には、3片と書かれている。

 『天正二年截香記』という史料によると、信長が蘭奢待を見たいという要望があったとき、東大寺では会議が催され、「拝見するのは構わないが、開封は規則を守ること」という条件で応じた。

 その後、信長は蘭奢待切り取りの許可を得て、のこぎりで「1寸4分」の大きさで2片を切り取ったという。1方は天皇に献上し、1片はもちろん自分が所持するためだった。

 信長は「紅沈」という香木を見たが、それは切り取らなかったという。しかし、『東大寺薬師院文庫史料』によると、「紅沈」も切り取ったとの説を載せる。

 『当代記』という史料には、信長は持ち帰った蘭奢待を3つに分割し、うち3分の2を諸人に与えたと書かれている。また、蘭奢待は毛利輝元にも与えられ、輝元はそれを厳島神社(広島県廿日市市)に寄進したという。

 このように史料によって、書き方はさまざまであるが、信長が蘭奢待を切り取ったのは事実である。

■蘭奢待切り取りの意義とは

 信長の蘭奢待切り取りの意義は、これまでどのように語られてきたのだろうか。

 本能寺の変の黒幕説の一つとして、「朝廷黒幕説」なるものがある。この説を簡単に説明すると、信長は正親町天皇に数々の威圧行為を行ったというもので、強い危機感を抱いた朝廷は、明智光秀に命じて信長を討たせたというものである。

 たとえば、信長が正親町に譲位を進めたこと、天正9年(1581)2月に京都馬揃えを敢行したこと(正親町天皇に信長軍の軍事パレードを見せつけて威圧した)は、その代表例とされた。

 しかし、現在の研究によると、当時の天皇が早い段階で譲位をして上皇になったことは常識であり、京都馬揃えも正親町天皇が自ら希望して実現したことが明らかとなった。つまり、信長に朝廷を威圧する意図はなかったと指摘されている。

 これまで蘭奢待の切り取りも、信長による威圧行為と評価されてきたが、実は違うと指摘されている。では、信長による蘭奢待切り取りは、どう評価すべきなのだろうか。

■実際はどうだったのか

 近年の研究成果によると、信長は事前に蘭奢待切り取りの許可を得て、正倉院には直接行かず、まず多聞山城(奈良市)に向かったという。正倉院に行かなかったのは、無礼であるとの誹りが世間に流れるのを防ぐためだ。

 その後、信長は蘭奢待を多聞山城に運ばせて、自ら切り取ることはせず、寺僧に「1寸4分」の大きさで2片を切り取らせた(1つは正親町天皇に贈り、1つは信長が所持)。また、「紅沈」はこれまで切り取られた跡がなかったので、拝見するだけだったという(以上『天正二年截香記』)。

 先にいくつかの史料を取り上げたが、蘭奢待切り取りの経緯については、『天正二年截香記』によるのが良いようだ。

■現段階での評価

 信長は決して朝廷に強要して、嫌がるのを無理やりに蘭奢待を切り取ったのではなかった。逆に、事前に切り取りを申請するなど、丁寧な姿勢が見られたと指摘されている。

 蘭奢待を切り取ったのは、前年に足利義昭を京都から追放した件と無関係ではない。室町幕府が滅亡したので、信長はその代行者として天下(この場合は京都や周囲の畿内)を支配することになった。

 蘭奢待の切り取りは、信長の天下人になったという意思の表明であり、朝廷もそれを認めて許可したということになろう。決して信長が嫌がる朝廷に強要したのではないのだ。