【光る君へ】実は不潔で、衛生面に大問題を抱えていた平安京の実態
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、公家たちの生活の模様が描かれているが、至って清潔である。しかし、当時の平安京は非常に衛生面に問題を抱えており、不潔だったことがわかっている。その点について、取り上げることにしよう。
平安京が成立したのは、桓武天皇の時代の延暦13年(794)のことである。以後、明治2年(1869)に東京遷都が行われるまで、我が国の首都だった。南北が約5.3キロメートル、東西が約4.5キロメートルで、右京と左京に分かれていた。町は、碁盤の目のように区画されていた。
平安京は天皇や公家が住む首都だったが、必ずしも住みやすかったわけではない。衛生面では多くの問題を抱えており、中でもトイレは酷いものだった。現代においては、下水などが整備されているので、衛生面の問題はクリアされているが、平安時代にはそのような設備がなかった。
平安京の大きな道に側溝が作られており、水が流れる仕組みになっていた。公家は塀の外に溝を掘ると、側溝の水を引き入れてトイレにしていた。そこで汚物を流したり、大小の用を足して流したりしていたのである。むろん、汚水を清浄化する設備はないので垂れ流しで、臭いも酷かったに違いない。
絵巻の『餓鬼草紙』には、驚くべき光景が描かれている。当時は、今のトイレのような気の利いたものはなく、人々は老若男女を問わず、道の隅で用を足していた。当時の人々は大きい方をすると、籌木という木のへらでお尻の糞を取っており、それが道に散乱していたという。
奈良時代において、木のヘラは使用済みの木簡が使われたという。また、人々が下駄を履いていたのは、糞が散乱しており、踏まないようにしていたからだろう。
物語作品の『落窪物語』には、悲惨な情景が描かれている。主人公が落窪の君に会うため外出したとき、途中で衛門督の一行と会ったので、道を譲ろうとして片隅に寄った。
その際、主人公の服に道に落ちていた糞がついてしまった。主人公は彼女に嫌われることを恐れ、自邸に戻ったのである。また、町では糞尿が処理されなかったので、台風や大雨になると悲惨なことになった。
不潔で不衛生なのは困るのだが、それらが疫病をもたらしたので悲劇だった。もちろん、当時は医療が発達していなかったので、今では薬を投与すれば治る病気も治らなかった。おまけに、病人を道に放置したり、遺骸も捨てたりするので、余計に悲惨なことになったのである。