本能寺の変後、森蘭丸は生き延びて、210余歳の長寿を保ったのか
火事で焼死体が見つかると、歯形の照合などによって、誰の遺体か判明することがある。しかし、戦国時代は科学が発達しておらず、誰の死体かわからないこともあった。
本能寺の変後、森蘭丸は焼死しておらず、生き延びて210余歳の長寿を保ったというが、その点について考えてみよう。
天正10年(1582)6月の本能寺の変で、織田信長は明智光秀に急襲され、自害して果てた。信長が死んだのは確実であるが、おそらく遺体は見つからなかっただろう(諸説あり)。本能寺が急襲された際、配下の森蘭丸も戦死した。『信長公記』には、蘭丸が御殿の内で討ち死にしたと書かれている。
蘭丸は可成の三男だった。蘭丸とともに、弟の坊丸と力丸も亡くなった。蘭丸の死後、長可が跡を継いだが、長可は天正12年(1584)の小牧。長久手の戦いで戦死した。戦後、森家の家督を継いだのは忠政である。忠政は、美作国津山藩の藩祖になったのである。
室鳩巣の『鳩巣小説』によると、光秀が首実検を行った際、蘭丸の首を見て尻餅をついたというエピソードを載せている。その理由は不明であるが、蘭丸は死んでもなお、光秀の顔を睨みつけていたのだろうか。なお、蘭丸の遺骸は、清玉上人によって、信長と同じく阿弥陀寺に葬られたという。
蘭丸は本能寺で死んだはずだが、生き延びたという説がある。その話を収録するのは、『拾遺老人伝聞記』という書物である。この書物は、仙台藩にまつわる不思議な話を収録している。
天明年間(1781~1788)頃、志賀隈翁なる医師が江戸に住んでおり、80歳前後の風体の老人だったという。しかし、隈翁は過去200年の出来事をよく覚えていたと伝わっている。隈翁は自身のことについて、次のように述べた。
隈翁は自分が森蘭丸であること、本能寺の変後に光秀を討とうとしたが、すぐに滅亡してしまった。そこで、自分も死のうとしたが、周囲の者に止められて生き長らえた、と口にしたという。隈翁が衣服を脱ぐと、明智方の将兵に斬られた古傷を見せたと伝わっている。
むろん、こうした話が信用できるわけがない。そもそも210余歳まで生きるというのは、とうてい不可能である。この話は単なる創作に過ぎず、とても信が置けないと考えるべきだろう。