元の主人に就職活動を妨害され、牢人生活を余儀なくされた3人の武将
4月に就職したばかりのフレッシュマンの退職が相次いでいるという。人手不足の模様なので、すぐに再就職が決まる人もいるとのこと。
戦国時代においては、元の主人に就職活動を妨害される例があった。それを奉公構という。このうち3人の武将の例を取り上げることにしよう。
◎後藤基次(1560~1615)
基次は黒田家の家臣として仕え、天正14年(1586)の九州征伐の頃から活躍ぶりを確認できる。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、主君の黒田長政が福岡藩主になると、基次は大隈城主になった。しかし、その6年後、又兵衛はほかの大名と書状を交わしていたことを長政に問題視され、黒田家を出奔した。
牢人となった基次は、福島正則・前田利長・結城秀康などから召し抱えたいと声が掛かるが、長政による仕官活動の妨害により実現しなかった。以降も基次の牢人生活は続き、慶長19年(1614)の大坂冬の陣の直前、豊臣方の招きにより、基次は大坂城に入城したのである。
◎塙直之(1567?~1615)
直之は、前半生が不詳である。天正末年頃に加藤嘉明の家臣となり、文禄・慶長の役で大いに軍功を挙げた。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、直之は嘉明の命令を無視したので勘気を蒙った。2人は激しい口論となり、直之は嘉明のもとから出奔した。そこで、嘉明は直之の仕官活動を妨害したのである。
奉公構をされたにもかかわらず、直之は小早川秀秋に仕えた。秀秋の死後は松平忠吉に仕官したものの、忠吉の死後は牢人生活を余儀なくされた。ようやく福島正則から声が掛かったが、嘉明によって仕官を阻止された。行き場のなくなった直之は、大坂冬の陣の直前に豊臣方の招きに応じたのである。
◎渡辺了(1562~1640)
了は近江浅井氏の家臣・阿閉貞征に仕え、天正10年(1582)の本能寺の変後は羽柴(豊臣)秀吉に仕官した。さらに秀吉の養子の秀勝に仕え、秀勝の死後は中村一氏の配下となった。しかし、了は小田原合戦における恩賞に不満を持ち、一氏のもとを去ったという。
その後、了は増田長盛に仕官したが、関ヶ原合戦で長盛が改易されたので、藤堂高虎に仕えた。大坂冬の陣において、了は作戦をめぐって高虎と口論となり、戦後に藤堂家を去った。了は仕官活動を行ったが、高虎は奉公構を行った。藤堂家は代が高次に代わっても、了への奉公構を止めなかったのである。
◎まとめ
ここに挙げた3人は力量があったので、たびたび主人と衝突し、牢人生活を余儀なくされた。元の主人は、有能な元家臣が他家に仕えるのを阻止するため、奉公構で対抗したのである。