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【戦国こぼれ話】戦国大名が愛した温泉には効能があったのか!? その逸話を徹底検証する

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
冬は温泉が恋しくなる季節。戦国武将は戦いの傷を癒すために利用した。(写真:アフロ)

■今も昔も温泉は大人気

 寒くなって、温泉が恋しい季節になった。戦国武将と温泉は、意外に関係が深い。今のような家庭用の風呂が普及していない戦国時代において、温泉は24時間利用できる貴重なものだった。

 また、戦乱の絶えない時代にあって、合戦における怪我などの治療には、温泉の成分が効いたという。それは、現代人が病気や怪我を治すため、湯治に行くのと同じである。

 以下、戦国武将と温泉にまつわる逸話を取り上げてみよう。

■上杉謙信と生地温泉

 上杉謙信と生地温泉(富山県黒部市)のエピソードもよく知られている。あるとき謙信が越中に進軍すると、急に脚気となり生命の危機に陥った。

 家臣たちが新治神社に平癒の祈願をすると、謙信の枕元に老人があらわれ「白い鳩が杖にとまったとき、その杖の下を掘るとお湯が湧き、そのお湯に浸かると病気が治る」とお告げをしたという。謙信はそのとおりお湯に浸かると、病は治ったと伝わっている。温泉の効能を謳った逸話になろう。

■島津義弘と吉田温泉

 島津義弘と吉田温泉(宮崎県えびの市)とのかかわりも有名である。天文23年(1554)、霧島山が突如として噴火し、昌明寺地区にお湯が沸きだした。これが吉田温泉のはじまりであるが、最初は鹿が傷を癒しており、「鹿の湯」と称されていた。

 お湯が万病に効くと噂を聞いた島津義弘は、湯治用の施設を造営し、入浴するようになった。さらに合戦で怪我をした兵らを入浴させるため、湯屋を増改築し管理規則を制定し、湯守を置いた。そして、湯権現社を建立したのである。

■織田信長と下呂温泉

 織田信長と下呂温泉(岐阜県下呂市)とのかかわりは、『羽渕家家系図』という系譜に残っている。天正6年(1578)春、当時、飛騨をほぼ制圧下に置いた信長は、下呂温泉に湯治に出掛けたという。戦いの連続だった信長にとって、安らぎの時間であった。温泉の逸話が少ない信長にとっては、貴重な例である。

■武田氏と温泉

 下部温泉(山梨県身延町)は、武田信玄(晴信)の父・信虎の代から「隠し湯」として知られている。川中島の合戦後、信玄や配下の者は、温泉に浸かって疲労回復に努めたといわれている。

 また、子の勝頼は、天正3年(1575)の長篠合戦後、傷ついた兵士らの傷を癒すため、真田氏に命じて伊香保温泉(群馬県渋川市)を整備させたという。

 つまり、戦国武将にとっての温泉とは、合戦で怪我を負った兵らの傷を治すための施設という位置づけにあったのだ。

■戦国武将と温泉の逸話に根拠は?

 以上、戦国武将と温泉とのかかわりを述べてきたが、なかにはたしかな史料では確認できない例もある。江戸時代に温泉の効能を謳うため、戦国時代の名将の由緒を引き合いに出したと考えられ、それゆえ武将の「隠し湯」の伝承は数多い。

 しかし、いずれも名の知られた温泉ばかり。コロナが終息したら、ぜひ行ってみよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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