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【戦国こぼれ話】未だにある身代わりの出頭。徳川家康は途中で別人と入れ替わったのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
天下人になった徳川家康。実は、途中で別人が入れ替わったという説がある。(写真:takepon/イメージマート)

■身代わりの存在

 交通事故を起こした際、免許の停止や職場での立場が悪くなることを恐れて、身代わりで知人などを警察に出頭させることがある。しかし、警察官が取り調べているうちに話の辻褄が合わなくなり、悪事はすぐに露見するようだ。

 実は、徳川家康には、途中で別人が入れ替わったとの説がある。それは史実として認められるのだろうか?

■影武者の存在

 戦国武将の影武者については、以前から存在が指摘されてきた。たとえば、武田信玄の影武者は、弟の信廉であったという。しかし、裏付ける史料がないので、史実ではないと指摘されている。

 明治時代には徳川家康が途中で別人と入れ替わったという説が唱えられ、話題となったことがある。こちらは影武者ではなく、家康と別人が入れ替わったという話だ。

■村岡素一郎の研究

 明治35年(1902)、村岡素一郎が『史疑 徳川家康事蹟』という本を民友社から刊行した。村岡は教育者として生徒の指導に当たる傍ら、徳川家康の研究をしていた人物である。

 この本では、徳川家康は若い頃に不慮の死を遂げ、別人が入れ替わったとのセンセーショナルな説が唱えられている。以下、村岡説の概要を取り上げよう。

■村岡説の概要

 永禄3年(1560)12月4日、家康(当時は元康。以下、家康で統一)は尾張に攻め込み、織田信長と戦おうとした。しかし、翌12月5日、家康は家臣の阿部正豊に殺害されたというのである。これは、今までになかった説である

 当時、家康の子・信康はまだ3歳の幼児だった。このままでは、家が滅亡することが危惧された。そこで、家康の死を隠し、代わりに擁立されたのが世良田二郎三郎元信である。

 信康が成人するまで、元信が家督を代行することになったのだ。永禄5年、元信は信長と同盟を結び(清洲同盟)、翌年には名を家康と改名したという。事実ならば、大変センセーショナルな説である。

■世良田二郎三郎元信のこと

 ここで、元信の素性について触れておこう。元信の父は江田松本坊なる新田氏の流れを汲む人物で、母は賤民の娘・於大だった。

 2人の間に生まれた子供は、最初に浄慶と名乗っていたが、永禄3年に元信と名を改めた。同年、元信は今川氏の人質となっていた家康の子・信康を誘拐したという。

 永禄3年の桶狭間の戦いで今川氏が織田氏に敗れると、元信はその混乱に乗じて、同志とともに浜松城を落した。その勢いで三河に攻め込むが、家康に敗退する。

 結局、元信は家康に降伏し、誘拐した信康の返還を条件として、その家臣となった。そして、先述のとおり家康が暗殺されたことに伴い、元信は家康と入れ替わったという。

 こうして元信は、徳川家康として生涯を全うしたのだ。

■受け入れられなかった説

 この説の反響は大きかったが、史学界には受け入れられなかった。そもそも根拠となる確かな史料がなく、まったく裏付けようがない。まったくの想像にすぎないのである。

 つまり、想像の産物に過ぎないのである。結局、村岡説は受け入れられなかったが、その後も家康が入れ替わったという説は、小説の題材として好んで用いられた。

 歴史上のおもしろい話には、根拠のない話が珍しくない。あまりに荒唐無稽な話には注意すべきである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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