【戦国こぼれ話】復元するか、補強するか!毛利氏の居城だった広島城築城のルーツを探る。

現在の広島城は戦後になって再建されたので、補修などが必要だ。(写真:アフロ)

■難しい城郭の維持

 文化財を維持していくには、コストがかかってしまう。今の広島城は3代目であり、戦後の昭和33年(1958)年に再建された。しかし、報道によると耐用年数の問題もあり、復元すべきか補強すべきか、激しい議論が交わされているという。

 ところで、広島城はいかなる経緯で築城されたのか、探ることにしよう。

■もとの本拠は吉田城

 毛利氏は元就の代のとき、安芸国吉田荘(広島県安芸高田市)の郡山城を居城としていた。しかし、郡山城は山間部に位置するため不便が多かった。

 輝元は中国地方に覇を唱えるべく、交通・戦略上の要衝地を求めて、広島に進出したと考えられている。そこには、いかなる事情があったのであろうか。

■時代遅れを実感

 天正16年(1588)、初めて輝元は上洛することになり、秀吉に謁見する機会を得た。輝元は秀吉の居城である大坂城(大阪市中央区)や聚楽第(京都市上京区)を訪問し、その豪勢さや城下町の繁栄を目にすることになった。圧倒されたといっても過言ではない。

 このとき輝元は、山間部に位置する郡山城が時代遅れであることを痛感し、新たに広島城の築城を決意したといわれている。それは、山城から平城へという時代の流れでもあった。

■用地の選定

 輝元が広島湾頭に築城を決意したのは、中国地方一帯を治めることが可能な城と城下町建設を意識していたからであった。現在、広島城のある太田川デルタ周辺は、かつて祖父の元就も注目した要衝地であった。むろん、山陽道にも面しており、陸上交通の便も良かった。

 翌天正17年(1589)、輝元は周囲の山々から城地を見立て、築城を開始した。当時、この地はもともと「五箇」と呼ばれていたが、築城工事を機にして「広島」と名付けられたといわれている。

■難航した工事

 こうして工事ははじまったものの、極めて難航したという。城を築くには、太田川デルタ周辺は地盤が軟弱だったからである。それでも工事は急ピッチで進められ、輝元は2年後の天正19年(1591)に無事入城することができた。

 ところが、この段階では本丸などの主要な部分が完成していただけで、肝心の石垣や堀などの防御施設は未完成だった。そのため完成に向けて、その後も工事は延々と行われた。

■長い年月を経て完成

 天正20年(1592)、秀吉が広島に立ち寄った際も城は未完成であった。築城工事が困難を伴ったことが理解される。文禄2年(1593)にようやく石垣が完成し、落成したのは慶長4年(1599)のことだった。なんと完成には、工事から10年余も時間を要したのだ。

 翌慶長5年(1600)9月、関ヶ原合戦で西軍の総大将を務めた輝元は、徳川家康から責任を追及され、周防・長門両国へ転封を命じられた。これにより毛利氏は、約120万石から30万石へと大幅な減封となった。

 そして、同年10月、徳川家康は論功行賞を行い、旧毛利領の安芸・備後両国を福島正則に与えることにした。こうして広島城は新しい城主を迎えたのである。