【戦国こぼれ話】敗者は復活するのか!苦難を耐えしのいだ真田家の生活とは!

かつて真田昌幸・信繁父子が蟄居を命じられた九度山には、ゆかりの史跡が残る。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■苦難を乗り越えるには

 コロナの悪影響が止まらない。業績悪化によるリストラや店舗の閉店が相次いで報じられている。政府もさまざまな経済政策を打ち出しているが、なかなか決定打にならない。ただ閉塞感が漂うばかりで、苦境にあえぐ人は救われていない。

 同じように苦難の道を歩んだのは、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で敗北した真田昌幸・信繁父子である。2人はいかにして、幽閉生活を乗り越えたのだろうか。

■九度山での蟄居

 敗北した昌幸・信繁父子は、辛うじて死を免れ、同年12月13日に九度山へと向かった(『当代記』)。2人が蟄居を命じられた高野山の麓にある九度山(和歌山県九度山町)は、かつて高野山領だった。2人に随行して九度山へ下向したのは、わずか16名の家臣にすぎなかった(「真田家文書」)。

 九度山には真言宗の開祖・空海の母が慈尊院に住んでいたといわれ、空海は母に面会するため、月に9回も慈尊院を訪れたという。当時、高野山は女人禁制であり、母が空海に会うために高野山を訪ねられなかったのである。そのような逸話にちなんで、九度山と名付けられたと伝わる。

■2人の悔しい気持ち

 昌幸・信繁父子がいよいよ九度山へ向かう際、昌幸の嫡男・信之(信幸)と面会をしたという。はらはらと涙を流し、恐ろしい目つきをした昌幸は「それにしても何と口惜しいことであろうか。家康こそ九度山へ追放してやろうと思ったのに」と心中を吐露したといわれている(『真田御武功記』)。

 気持ちは子の信繁も同じで、「紀州高野山の麓の九度山に引き籠る信繁は、常に兵法を談じて天下の時勢に思いをめぐらせていた」と伝わる(『常山記談』)。

 昌幸・信繁ともに家康に対する悔しい気持ちを語っているのであるが、これが事実であるか否かは不明である。2人は一介の牢人として九度山で生涯を終えることなく、天下の情勢に思いをめぐらせ、「打倒家康」を悲願として日々を過ごしていた様子がうかがえる。

 こうしたエピソードは、一人歩きしたのではないだろうか。2人が「打倒家康」を諦めなかったというのは、二次史料にしか見えない。たとえば、『常山記談』は後世に成立した問題の多い逸話集であり、そのまま信じるわけにはいかないだろう。

■2人が住んだ場所

 2人が住んだのは、真田家と師壇関係にあった高野山蓮華定院の管理下にあった善名称院である。2人の屋敷は、別々に用意されたという。おそらく寺院の建物を改装して、提供されたと考えられる。この善名称院こそが、有名な真田庵である(以下、真田庵で統一)。

 小山田茂誠に宛てた11月11日付の昌幸の書状(慶長15年頃)によると、昌幸の屋敷は善名称院から借りていたことが判明する(「小山田文書」)。昌幸が住んだ場所は道場海東と呼ばれ、信繁が居住した場所は堂海東といった(『先公実録』)。「海東」とは「垣内」のことで、住居の垣の内または樹木などで囲まれた住宅を意味する。

■九度山での生活

 2人は、どのような生活を送っていたのだろうか。昌幸は大小の刀の柄に木綿の打糸を巻いて生活の糧にしていた。これを見た人は、粗末さをあざ笑ったが、昌幸は「たとえ錦の服を着ていても、心が頑愚(愚かで強情なこと)ならば役に立たない」と述べ、「これを見よ」と大小の刀を抜くと、それは名刀として名高い「相州正宗」であったという(『名将言行録』)。

 以後、人々は昌幸に敬意を表し、その木綿の打糸を「真田打」と称したという。「真田打」とは「真田紐」のことで、現在、「真田紐」は和歌山県のお土産として知られるようになった。

 『安斎随筆』によると、「真田紐」は2人が脇差の柄を巻くために開発し、その製造・販売で生活をしていたといわれている。しかし、いずれにしても拠っている史料は、信が置けないものが多い。

 紀ノ川沿いには真田淵という場所があり、2人が水芸(魚捕りや水遊びなど)に興じていたという(『紀伊国続風土記』や『先公実録』)。楽しい生活をしていたようだ。

 古曾部の東、丹生川の東崖の岩間には、「真田の抜け穴」があったといわれている。これは各所に伝わる「真田の抜け穴」の一つであるが、怪しいと言わざるをえない。

 このように真田氏の幽閉生活にまつわる逸話は多いものの、実際はどうだったのか不明な点が多い。むしろ生活が厳しかったというのは、以前に述べたとおりである。こちら