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【戦国こぼれ話】今も昔も優秀な人材は不可欠!織田信長を支えた有能な家臣団のすべて!

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
優秀な人材を雇いたいのは、今も昔も同じ。織田信長の家臣の実態とは?(写真:アフロ)

■優秀な人材がいてこそ政治は良くなる

 菅政権が発足して次々と政策を行っているが、国民はどう見ているのだろうか?むろん菅総理1人が孤軍奮闘するわけにはいかず、各大臣や官僚の力が必要である。有能な人材こそが国を支えているのだ。

 同様に信長がいかに優れていたとはいえ、たった1人で何事もこなせるわけがない。優れた家臣団が存在し、信長を支えていたのだ。では、信長を支えた家臣団には、どのような人々がいたのだろうか。

 もっとも頼りになったのは、信長の兄弟や子をはじめとする親類衆だろう。とはいえ、それだけでは人員が足りなかったのは間違いなく、多くの戦力を必要とした。以下、信長の家臣団の構成と強さの秘密を見ることにしよう。

■家臣団の構成

 家臣のなかには軍事指揮権を持ち、一城を任されるような比較的大身な者も存在した。彼らの多くは尾張や美濃に本拠を置く武将だったが、信長の台頭とともに従った中核的な家臣といえよう。

 ほかには、馬廻衆や小姓衆などの職掌もあった。このうち、小姓衆は信長の近くにいて、身の回りの世話をするのが仕事だ。平時は信長ともっとも近い関係にあったが、やや職掌としては軽かったのかもしれない。ただし、馬廻衆よりも所領規模の大きい小姓衆も存在したので、それだけでは身分の上下の指標にはならない。

 馬廻衆は、もともと主君の乗る馬の身辺で警護する騎馬武者を意味した。信長のケースで言えば、戦時には信長のいる本陣を守備し、平時は政務を担当するという性格を持っていた。戦闘時に用いる武器によって、「鉄砲衆」「槍衆」「弓衆」などのように区分されることもある。彼らは、信長の親衛隊と称された。

■黒母衣衆と赤母衣衆

 永禄年間(1558~70)頃、信長は馬廻衆から「黒母衣衆」を、小姓衆から「赤母衣衆」をそれぞれ10名ずつ選抜(『信長公記』)。黒母衣衆、赤母衣衆については、「高木文書」にも記載がある。

 そもそも母衣とは鎧に着ける布のことで、流れ矢を防ぎ、旗指物の一種としても使われた。信長の母衣衆は、特に優秀な武将を選抜した親衛隊を意味し、馬廻衆や小姓衆より一段高い名誉職的な意味合いがあったと指摘されている。ちなみに、赤母衣衆と黒母衣衆には、身分的な上下はなかったようだ。

 信長の馬廻衆の威容は、薩摩の大名・島津家久『中務大輔家久公御上京日記』に詳しく記されている。天正3年(1575)4月21日、京都にいた家久は、大坂本願寺との戦いを終えた信長の軍勢と遭遇。それは17ヵ国から集められた、数万という数だった。信長は100騎もの馬廻衆と相国寺に向かい、その幟には中国の明からの輸入銭「永楽通宝」が描かれていた。

 信長には20人の母衣武者が付き従っていたが、母衣の色は定まっていなかった。馬には馬面や馬鎧、また寅の皮を着用させたものもあった。同日記によると「母衣は弓矢に覚えのある者が許されたようだ」と書かれているので、彼らが信長の精鋭部隊であることは間違いない。

 名誉ある黒母衣衆、赤母衣衆だったが、名前が知られているのは、ごくわずかな人物に過ぎない。のちに大名となった佐々成政や前田利家も、母衣衆の一人だ。利家は、「槍の又左」の異名をとる武功者であり、若い頃は武闘派でならした。

■代表的な家臣たち

 もっとも有名なのは、毛利良勝であろう。良勝は永禄3年(1560)の桶狭間合戦において、同僚の服部一忠を助け、今川義元の首を獲るという大手柄を挙げた。良勝は義元と組み合った際、指を噛みちぎられたという逸話がある。この戦いで、信長の天下取りの道筋ができたことは疑いない。

 母衣衆ではないが、『信長公記』の著者・太田牛一は、弓の名手として知られる。やがて、弓3人鑓3人の「六人衆」の一員となり、信長の直臣たる近侍衆として仕えた。

 ただ、母衣衆は、総じて早死にした者が多い。たとえば、塙(原田)直政は長篠合戦で鉄砲奉行を申し付けられるほどの強者だったが、天正4年の大坂本願寺との戦いで戦死。また、天正10年6月の本能寺の変では、毛利良勝も戦死した。

■優秀な吏僚の存在

 無視することができないのは、優秀な吏僚たちだ。奉行衆(主に行政を担当)、右筆(信長の手紙を代筆)、同朋衆(芸能や雑務をこなす)などはその代表で、武芸ではなく、実務をこなすことで信長に貢献した。彼らは親衛隊とは言えないが、支配を展開するうえで欠かせざる人材だった。

 このように、信長の戦争を支えたのは、大身の有力な家臣だけではなく、命知らずの親衛隊の面々だ。彼らの存在なくしては、信長の勢力拡大は不可能だったといえる。同時に、有能な吏僚たちが、支配や合戦を進めるうえでの実務を掌握しており、信長の下支えをしていたのである。

 ところで、現政権には優秀な人材が揃っているのだろうか?今後の政策に期待したいところである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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