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【戦国こぼれ話】現在は学者受難の時代?戦国時代は重要だった知識人たち!

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
日々、研究に打ち込む研究者たち。今や研究費の削減で厳しいという。(写真:apio/イメージマート)

■厳しい学者たち

 菅総理は、日本学術会議が推薦した新会員の候補者6人の任命をしなかった。この制度がはじまってから、初めてのことだという。日本学術会議は、要望書を送る予定と報道されている。

 とはいえ、昨今の少子化も相まって、高等教育の予算が削られるなど、大学や研究所の先生を中心とした学者にとって、厳しい時代が到来している。

 しかし、戦国時代は決してそうでもなかったようだ。その一端を見ることにしよう。

■知識人だった僧侶や公家

 戦国時代にあって、知識人と言えば僧侶や公家だった。彼らは和漢の書籍に親しみ、当時における高度な学問を学んでいた。一方、戦国大名はそういう知識を得たいとは思うものの、独学では厳しい側面があった。したがって、僧侶や公家を自邸に招き、講義を受けていたのである。

 特に、公家の場合は財政基盤となる荘園からの年貢が期待できなかったので、講義や古典の書写で得る収入を当てにしていた側面があった。各地の荘園は武士らの侵略により、有名無実になっていたのだ。

 では、具体的にどういう人々がいたのだろうか。

■「大学者」と自称する一条兼良(かねよし)

 一条兼良(1402~81)は「菅原道真以上の学者である」と自称し、周囲からも「日本無双の才人」と高く評価された天才学者である。

 兼良は五摂家の一つ一条家の出身で、太政大臣、摂政、関白などを歴任した、スーパー・エリートでもある。しかし、応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱で、奈良への疎開を余儀なくされた。有職故実書の『公事根源(くじこんげん)』など、著書は数えきれないほどある。

■能書家だった三条西実隆(さねたか)

 三条西実隆(1455~1537)は能書家として知られ、一条兼良と比肩するほどの大学者だった。実隆が書き残した『実隆日記』は、戦国時代初期の政治、経済、文化などを知るうえで、貴重な史料である。

 実隆は室町幕府の歴代将軍をはじめ、播磨守護の赤松氏、若狭守護の武田氏などと親交を深めた。しかし、実隆も当時の例に漏れず、所有する荘園からの年貢が滞り、経済的な危機に陥った。実隆は地方にある自身の荘園には下向せず、京都でがんばった。

 実隆は能書家だったので、守護やその家臣からの依頼を受け、古典を書写して糊口を凌いだ。現代のような印刷技術がなかったので、書物が欲しければ、書写するよりほかはなかった。このようにして、実隆は何とか生活を維持したのである。

■徳川家康の政治顧問だった天海、崇伝(すうでん)

 徳川家康が抱えていた政治ブレーンとしては、天海(?~1643)、崇伝(1569~1633)という二人の僧侶が有名だ。

 家康に仕えた天海は、崇伝とともに慶長19年(1614)にはじまる大坂の陣の原因となった方広寺鐘銘事件に関与したことで知られている。方広寺の鐘銘「国家安康」の文言が家康の名を2つに割いたとクレームをつけたのである。これにより豊臣家は窮地に陥り、徳川家との交戦を余儀なくされた。

 同じく家康に仕えた崇伝は、「武家諸法度」(幕府が諸大名を統制するための法)、「禁中並公家諸法度」(幕府が定めた天皇及び公家に関する法)などの制定に深くかかわり、江戸幕府の礎を作ったと言われている。

■今も昔も重要な学問

 戦国大名といえば、戦いに明け暮れていたような印象があるが、決してそれだけとは言えない。彼らは教養を身に付けるべく、公家や僧侶から講義を受けることもあった。そして、彼らを政治ブレーンとして登用することもあったのだ。

 日本学術会議だけでなく、日本の学術研究を担う大学も非常に厳しい。何とか改善をお願いしたいところである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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