【戦国こぼれ話】シルバー・ウィークで観光客が増加した長崎。なぜキリスト教は長崎に根付いたのか?
■長崎に観光客が戻る
シルバー・ウィークの期間には、長崎で観光客が増加したという。もちろんお目当ては、世界文化遺産の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」である。一時はコロナ渦で観光客が減ったのだから、明るい兆しである。ぜひ、全国にも観光の復活が波及してほしいと切に願う。
ところで、長崎と言えば、戦国時代にキリスト教が伝わった場所として知られている。では、なぜキリスト教は中国・四国地方でも近畿地方でもなく、九州の長崎で広まったのだろうか。
■ザビエルの来日
長崎は肥前のキリシタン大名の大村純忠(すみだた)により、教会領として寄進され、日本におけるキリスト教の一大拠点となった。以下、長崎・平戸にキリスト教が根付いたのか考えてみよう。
天文19年(1549)、イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルは海路で薩摩に上陸し、福昌寺(鹿児島市)の住職である忍室文勝(にんしつもんしょう)と交流を深め、100人余の信者を得るという成果を得た。
ザビエルは薩摩の戦国大名・島津貴久に謁見し、日本で布教のチャンスを見出そうとしたが、結局、薩摩でのキリスト教の布教は失敗した。ザビエルは出鼻をくじかれたが、諦めずに肥前平戸(長崎県平戸市)へ移った。
ザビエルは平戸で死後の世界や霊魂の問題を領民に説くと、大きな反響を呼んだ。こうしてキリスト教信者の増加に結びつけることに成功した。平戸は日本海に面し、北松浦半島の一部と平戸島・生月島・的山大島などから構成されていた。海上交通の便に優れていたのだ。
当時、平戸は松浦氏の城下町として栄えており、古くから中国大陸との交易が盛んな地域でもあった。それゆえ、ザビエルは領主の松浦隆信から厚遇され、やがて平戸はポルトガル船の寄港地としても繁栄し、ヨーロッパとの交易の要地になった。キリスト教の布教とポルトガルとの交易はセットであったといえる。
■西国での布教は失敗
平戸をあとにしたザビエルは周防山口(山口市)に向かい、大内義隆との面会が叶った。このときは、ザビエルが同性愛の罪について説いたので、義隆は激怒して退席を命じたという。
その後、周防山口を離れて堺、京都へと移ったが、当時の京都は戦乱で荒廃しており、キリスト教の布教を断念せざるを得なかった。ザビエルはポルトガル領インドの首府ゴアからインド総督の親書を携えて正親町(おおぎまち)天皇や足利義輝への面会を申し出たが、献上品がなかったために拒否された。未だ畿内では、布教が困難だったのだ。
やむなくザビエルは平戸へと舞い戻り、同地を拠点にして周防山口や豊後での布教に専念し、キリスト教信者を増やしていく。意外なことに、のちに義隆はザビエルを歓待し、キリスト教の布教を許可した。
■信者の増加
ザビエルの没後、イエズス会による日本への宣教師派遣は活発化し、キリスト教信者らも増加の一途をたどった。なかでも平戸は、その中心地だったといえる。日本に来た宣教師らは平戸、山口、豊後に次いで、肥前西南部を布教のターゲットに定めた。
大村(長崎県大村市)の領主であった大村純忠はイエズス会と結び、自領の安定化を企図した。ポルトガル船との交易の活発化を進め、宣教師を自領に招くなどしたのである。
純忠はポルトガル船の寄港地として肥前横瀬浦(長崎県西海市)や長崎を提供したので、長崎は天正8年(1580)に教会領となった。長崎は交易・布教両面で大いに繁栄し、ポルトガル人の居宅が立ち並んだのである。
■キリシタン大名の理解
純忠は交易だけでなく、キリスト教へ強く関心を持った。純忠は洗礼を受けキリシタンとなり、教会建設を推進し、キリスト教の伝播に貢献したのである。こうして平戸を含め、九州にはキリスト教が急速に伝播した。
このように平戸などの九州西南部は交通の便がよかったので、ポルトガル人の往来がしやすく、宣教師も立ち寄りやすかった。また、大村氏らの大名も貿易などの推進に熱心で、キリスト教に理解を示した。そうした地理的あるいは政治的な環境により、長崎、平戸などにキリスト教が根付いたといえよう。