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あらためて、『明日、ママがいない』を考える~ドラマ作りにおける想像力と創造力

碓井広義メディア文化評論家

期せずして、この冬最大の話題作になってしまった『明日、ママがいない』(日本テレビ)。番組ウエブサイトのイントロダクションには、現在も以下のようなメッセージが掲げられている。

「今、君の隣にママはいますか――? 物語の舞台は児童養護施設。親の愛から見離された少女たちが集まる。児童養護施設。そこは、親のいない子どもたちが暮らす場所。その数は全国で約600件、生活する児童の数は3万人を超えている。子どもたちがやってくる理由のほとんどは――虐待だ」。

さらに、「このドラマは愛すること、愛されることは何かを、子どもたちの目線で問いかける」と書かれている。そのまま受け取れば、経済的事情から虐待まで、様々な理由で実の親に養育してもらえない子どもたちが懸命に生きようとする姿を描くドラマだったはずだ。

●何が問題視されたのか

ところが、初回放送直後に熊本県の慈恵病院や全国児童養護施設協議会が放送中止や内容改善を要求したことをきっかけに、視聴者からの批判や批難の声が高まり、やがて全スポンサーのCM自粛という異常事態へと発展していく。

「これでもし本当に取りやめになったら前例になる。それはテレビ全体にとって大きな問題ではないか」というのが当初の実感だった。小説やドラマでは極端な表現で普遍を描くこともあるからだ。登場人物がみんないい人では、表現の幅をせばめてしまう場合もある。また、冒頭の部分だけを見て作品を断罪されることは、作り手にはとってつらい。全体を見て評価して欲しいと思うだろう。

2月上旬に日本テレビが文書で謝罪を表明し、内容を改善する方向を示したことで騒動はひとまず沈静化。放送も継続されている。確かに、途中からは明らかに登場人物たちの言動がマイルドになった。

あらためて初期の放送分を見直してみれば、主人公(芦田愛菜)に「赤ちゃんポスト」からとった「ポスト」というニックネームを付けたり、施設長(三上博史)に「お前たちはペットショップの犬と同じだ」というセリフを言わせるなど、見る側にショックを与える内容に問題がなかったとは言えない。

特に「赤ちゃんポスト(正式名称=こうのとりのゆりかご)」は実在の取り組みであり、全国で一ヵ所だけという慈恵病院が、この名称の使われ方に抵抗があるのは当然かもしれない。

次に、舞台となっている「コガモの家」は「児童養護施設」として、また「グループホーム」として、ドラマの中で設定されている。どちらも現実の存在であるだけに、「誤解、偏見、差別を生む」「施設の子どもたちが傷つく」という当事者からの批判が起きたことも理解できる。

しかし、その一方で、こんなことを思った。親が子をあやめてしまうニュースが珍しくない世の中で、その解決策は一向に示されていない。虐待など児童問題に対する意識を喚起させる点においては、意義のあるドラマだと言えるのではないか。

また、「ポスト」という過激なニックネームが問題視されたが、ドラマをしっかり見れば、主人公が自分を捨てた親との関係を断ち切るために、強い意志を持って自ら「ポスト」を名乗っていることもわかる。このドラマは子どもから見た親を描きつつ、一般的に“弱者”と見られがちな子どもの強さも伝えようとしていたのではないか。

とはいえ、制作側に落ち度がないわけではない。このドラマのように、「現実性」と「物語性」の入り交じった表現をする場合、制作側は「想像力」と「創造力」をフル稼働しなくてはならなかったはずだ。実際に児童養護施設で暮らしている子どもたちや、そこで働く人たち。さらに里親・里子の関係から出発して新たな家庭を築こうとしている人たちもまた、視聴者であることの自覚である。

●「あまちゃん」の想像力と創造力

たとえば昨年のNHK朝ドラ『あまちゃん』は、東日本大震災の被害の衝撃を、どのように描いていたか。多くの視聴者が「一体どうやって見せるのだろう」と注目していた震災と津波の場面が放送されたのは、2013年9月2日(月)の第133回である。冒頭は東京へ向うため北三陸鉄道に乗っているユイ(橋本愛)だ。そこに春子(小泉今日子)の「それは突然やってきました」というナレーションが流れる。そして突然、夏(宮本信子)の携帯電話が緊急警報を告げた。

結果的に、脚本の宮藤官九郎と制作陣は津波の実写映像を視聴者に見せることをしなかった。その代わり、主に2つの表現によってこの惨事を伝えたのだ。一つは観光協会に置かれていたジオラマの破壊された無残な姿だ。地震で壊れた北三陸のジオラマで、どこでどんな被害があったのかを語っていた。

もう一つが、電車が止まったトンネルを徒歩で抜けて、外の風景を見た瞬間のユイと駅長の大吉(杉本哲太)の表情だ。2人の絶望とも驚きとも取れるような表情を見た多くの視聴者は、それぞれに震災当時を思い浮かべたことだろう。さらに津波が運んできたと思われる、線路の周囲に散乱した瓦礫を短い時間で見せていた。敢えてそれだけにとどめたのである。

この描き方は見事だ。本物の映像は多くの視聴者の目に焼きついている。何より、被災地の皆さんもこのドラマを見ているのだ。あの日の出来事を思い起こさせるには必要かつ十分、しかも表現として優れたものだった。

視聴者の中には被災地に住む人も、実際に被災した人もいるわけで、流す映像やストーリーが、そうした「当事者」の特に精神面に、どんな影響を与えるかを考える必要がある。それがまさに制作側の「想像力」である。

しかも、想像力による当事者への配慮があった上で、表現として成立させなくてはならない。『あまちゃん』で言えば、被災地以外の場所に住む視聴者をも納得させ得る表現になっていることだ。そこでは精一杯の「創造力」を発揮しなくてはならないだろう。つまり、「想像力」と「創造力」という2点において、『あまちゃん』の震災表現は優れていたのである。

●乱暴だった「野島メソッド」

その点、『明日、ママがいない』は、当事者も含む視聴者に対する想像力と配慮、そして創造力に欠けていたのではないか。最も問題視された第1話は、脚本監修である野島伸司のテイストに満ちていた。きわどい設定、きつい言葉遣い。子供に手を上げる場面もあった。親に捨てられ、入った施設も安住の地ではない。「家なき子」や「高校教師」もそうだが、登場人物を追い込み、圧をかけるのは野島伸司の得意パターンである。

だが、今回ドラマの舞台とした児童養護施設は一般的には知られていない世界だ。視聴者によっては、現実と物語を混同する可能性があった。また、実際にそこで暮らす子どもたちも、実にデリケートな存在だ。単に親子の問題として片づけることのできない複雑な背景も広がっている。センセーショナルな内容でスタートして視聴者の心を揺さぶり、騒がれても「最終的にはいいお話でした」で決着させる“野島メソッド”は、今回に関して言えば、かなり乱暴な手法だったのだ。

何より、実在する「子どもたちをめぐる深刻な社会問題」を、いわばネタとして扱っている姿勢が透けて見えていたこと、そこに制作側の“こころざし”のようなものが希薄と思えることが残念だった。

打ち切りにこそならなかったが、このドラマが「抗議があれば企業はCMを見合わせ、局はフィクションであるドラマの内容も修正する可能性がある」という前例を作ってしまったことは事実だ。今後、局や制作者が萎縮し、扱うテーマや表現において自主規制していかないか。それをとても危惧する。

メディア文化評論家

1955年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。千葉商科大学大学院政策研究科博士課程修了。博士(政策研究)。1981年テレビマンユニオンに参加。以後20年間、ドキュメンタリーやドラマの制作を行う。代表作に「人間ドキュメント 夏目雅子物語」など。慶大助教授などを経て、2020年まで上智大学文学部新聞学科教授(メディア文化論)。著書『脚本力』(幻冬舎)、『少しぐらいの嘘は大目に―向田邦子の言葉』(新潮社)ほか。毎日新聞、日刊ゲンダイ等で放送時評やコラム、週刊新潮で書評の連載中。文化庁「芸術祭賞」審査委員(22年度)、「芸術選奨」選考審査員(18年度~20年度)。

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