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どうして野村克也の現役時代を語る人が少ないのか?

豊浦彰太郎Baseball Writer
プレーヤーマネージャー時代の野村(写真:岡沢克郎/アフロ)

逝去した野村克也は名選手であり、名監督であり、名解説者だった。しかし、選手としての部分はあまり話題にならなかった。その全盛期は遠い昔になってしまったこと以外にも理由がありそうだ。

野村克也が死んだ。突然の訃報に驚いたが、愛妻サッチーさんが逝ってから急激に老いたので、ある意味では来るべき日が来たか、という感もある。

野球人としての彼には語るべき部分がたくさんある。戦後初の三冠王獲得や史上2位の出場試合数(3017)、安打数(2901)、本塁打(657)、打点(1988)を誇る選手としての栄光、現役兼任、3度の日本一などの監督としてのキャリア、そして「ノムラスコープ」で知られた解説者としての部分だ。

彼のプロ野球人生はなにせ昭和29年に始まっているし、死の寸前まで野球人であったと思う。だから彼を追悼するに当たっては色々な切り口が可能だ。みんなそれぞれが、自分が生きてきた時代での野村克也がある。

比較的若い世代のファンやジャーナリストにとっては、やはり彼は監督であり、解説者であったのだと思う。「負けに不思議の負けなし」などの格言を発し、メディア向けの「ぼやき」をサービスする壮年や老人であったはずだ。

一方で、とても残念なことに彼の現役時代を論じる人はとても少ない。現在56歳のぼくでも、記憶に残る最も古い野村の記憶は、昭和48年の選手兼監督としての「死んだふり優勝」あたりからで、むしろその年から連載が始まった漫画「あぶさん」で、水島新司氏が描く選手としては峠を越すもプレーヤーマネージャーとして君臨する御大としての姿だった。

どうして現役時代の野村の凄さを語るファンやメディアが少ないのか。もちろんそれは時の流れの影響がある。昭和40年の三冠王獲得を語ることができる人はもうどんなに若くても60代後半である。しかし、世は高齢化時代だ。往時を知ってしかるべき70代でもピンピンしている人たちは街に溢れている。

全盛期の野村は、「策士」である以上に優秀なアスリートであったはずだ。彼は生涯で657本塁打を放っただけでなく、昭和37年から40年までの4年間ではなんと179本塁打を記録している(大阪球場は狭かったが)。通算で117盗塁も決めており(ただし、成功率は高くない)、2桁盗塁のシーズンも3度ある。また、捕手としても相手打者にささやくだけでなく、それなりに俊敏なフットワークを持ち、矢のような送球で盗塁を刺したのだと思う。しかし、彼のダイナミズムを語る声や記事に触れることは極めて稀だ。

おそらくそれは、彼はパ・リーグ不遇時代に全盛期を過ごしたからだ。今とは異なり、当時ほとんどの日本の野球ファンとってパ・リーグの選手のプレーに映像で触れることができる機会は大げさに言えば、オールスターと日本シリーズしかなかった。もちろん、地元関西のファンは本拠地の大阪球場だけでなく、西宮や日生で彼の溌剌とした活躍を生で見ることが可能だったのだが、何せ当時カネを払ってパ・リーグの試合を見に行くのは、ごく少数の「好きモノ」だけだった。そもそも彼の全盛期のプレーを見届けた人自体が今の日本には多くないのだ。

巨人V9真っ只中でON砲が炸裂していた時代にプロ野球の薫陶を得たぼくは、当時の王、長嶋の魅力を記録だけでなく記憶で雄弁に語ることができる。しかし、野村に関してはそうではない。平和台球場や小倉球場で何度か彼のプレーを生で見る機会には恵まれたが、基本的には「新聞とラジオの中の選手」だった。

生で全盛期の彼の活躍をそれなりにしっかり見た絶対数が少ない、そして映像で紹介されることが稀だった。だから、彼の現役時代は記録以上のことで語られることが少ないのだろう。やはり、彼は「月見草」だったのだ。ぼやきたくなるのも無理はない。

Baseball Writer

福岡県出身で、少年時代は太平洋クラブ~クラウンライターのファン。1971年のオリオールズ来日以来のMLBマニアで、本業の合間を縫って北米48球場を訪れた。北京、台北、台中、シドニーでもメジャーを観戦。近年は渡米時に球場跡地や野球博物館巡りにも精を出す。『SLUGGER』『J SPORTS』『まぐまぐ』のポータルサイト『mine』でも執筆中で、03-08年はスカパー!で、16年からはDAZNでMLB中継の解説を担当。著書に『ビジネスマンの視点で見たMLBとNPB』(彩流社)

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