「ニューヨークは晴れ、ところにより紙吹雪」ミラクル・メッツ50周年

10年前の40周年式典、ライアン(30) シーバー(41) クーズマン(36)(写真:ロイター/アフロ)

50周年を祝う

1969年にニューヨーク・メッツが初のワールドチャンピオンに輝いたいわゆる「ミラクル・メッツ」から、今年はちょうど50周年に当たる。それを記念して、球団は今週末のブレーブスを迎えての3連戦において、現地時間28日(金)に当時のレプリカジャージを、翌29日(土)はペナントを、そして30日(日)はワールドチャンピオンリングのレプリカを観客に配布するようだ。

また、本拠地シティ・フィールド前の通りは、当時のシンボル的存在で球団史上最大のスターであるトム・シーバーと彼の背番号に因んで「41 Seaver Way」と改名された。加えて、今後彼の銅像が球場前に設置されるという(現在74歳のシーバーは認知症と戦っている)。

今季のメッツは開幕前の下馬評とは裏腹に低迷が続いているが、この3連戦には大観衆が詰めかけることは間違いない。

そこで、半世紀後の日本のファンに「ミラクル・メッツとは何だったのか?」を解説してみたい。

69年のメッツ

1960年代のMLBは、多くのシーズンで攻守のバランスが著しく投手優位で推移したディケイド(10年間の意味)であり、エクスパンション(球団数拡張)のディケイドだった。それまで両リーグとも8球団だったが、1961年にはア・リーグが10球団に、翌62年にはナ・リーグが10球団となった(この時メッツも誕生している)。そして、ミラクル・メッツの69年には両リーグともそれぞれ2球団を増やし12球団へ。そして東西2地区制へ移行した。

また、60年代はミラクル球団のディケイドでもあった。

61年ナ・リーグ優勝のレッズは、67勝87敗(勝率.435)だった前年から26も勝ち星を増やしての栄冠だった。92勝70敗でア・リーグを制した67年のレッドソックスも、前年は72勝90敗(勝率.444)だった。しかし、とどめを指すべきはやはり69年のミラクル・メッツだろう。

メッツはとにかく弱かった。創立の62年は120敗。これは、20世紀以降では今もメジャーワースト記録だ。ミラクルの前年(68年)も、1ゲーム差でかろうじて最下位を免れたところだった。62年から68年まで、10球団制のナ・リーグで9位がベストで勝ち越しは一度もなかった。それが、突如世界一となったのだから、ミラクルと呼ばずして何と形容すべきか。

69年、前述の通り、両リーグとも各10球団から12球団となり東西2地区制へ。メッツは東地区に編入された。シーズンではレオ・ドローチャー監督(76年に太平洋クラブ・ライオンズの監督就任が一度は発表されたが、高齢による体調不良で来日は実現せず)率いるカブスがリードしていたが、9月に入って9勝18敗と大失速。

一方、メッツは開幕当初は例年通りで、最初の41試合は18勝23敗だったが、そこから11連勝。それが効いて、42試合目以降は82勝39敗で勝率はなんと.678だった。結局、メッツは100勝を挙げカブスに8ゲーム差を付け初優勝を飾ったのだ。

勢いに乗るメッツは、ブレーブスとのプレーオフでは3連勝。ワールドシリーズでは、4勝1敗でオリオールズを下した。そのワールドシリーズでのドラマをいくつか紹介しよう。

ワールドシリーズのヒーローたち

1勝1敗で迎えた第3戦は、トミー・エイジーの1人舞台だった。初回先頭打者本塁打に加え守備でも魅せた。3対0でリードしていた4回、二死で走者2人という場面でオリオールズのエロルド・ヘンドリクスが左中間に大飛球を放った。これをエイジーは40m以上を激走し、フェンス際で辛うじてグラブの先っぽで捕球した。これは、ワールドシリーズ史上では54年のウィリー・メイズ(ジャイアンツ)、55年のアル・ジオンフリード(ドジャース)らのプレーにも匹敵する美技として語り継がれている。この試合、メッツは5対0で勝利した。

最終の第5戦でもドラマがあった。3対0でビハインドの6回裏に、クレオン・ジョーンズは死球を得た。微妙な判定だったが、ボールにジョーンズのスパイクの靴墨が付いていたのが証拠となった。スパイクの表皮は軽い合皮が一般的な現代ではあり得ないことだ。

その死球で出塁したジョーンズを一塁に置き、ジョン・クレデノンが3号2ラン本塁打をレフトスタンドに叩きこんだ。これにより1点差に迫ったメッツは、7回に追いつき、8回には逆転した。

9回表、最後の打者となったデーブ・ジョンソン(75~76年は巨人に在籍)のレフトフライをジョーンズはがっちり掴み、フィールドに流れ込むファンを避けながらダグアウトに突進した(場内に配備された警備員が一切の乱入を防ぐ現在ではあり得ないシーン)。

優勝パレードの日、天気予報がニューヨークの天気を「晴れ、所により紙吹雪」と報じたしたのはあまりに有名なエピソードだ。

若手の台頭が「ミラクル」を実現

ここで、少し冷静に考えて見よう。「ミラクル」はなぜ起きたのか?現代なら、弱小球団がいきなり覇権を掴むことも、FAの大量獲得により可能とも思えるが、60年代にはこの制度は存在しない。

69年のメッツだけでなく、冒頭挙げた61年のレッズや67年のレッドソックスのケースに共通して言えるのは、若い力の急激な台頭だった。

69年のメッツの場合は、ゲーリー・ジェントリーやタグ・マグローが頭角を表した。

ジェントリーはこの年デビューし、いきなり35先発で233.2回を投げ13勝12敗、防御率は3.43。マグローはメジャーデビューこそ1965年だが、68年はマイナー暮らしで昇格はなし。それで69年は、リリーフ中心で42試合に登板し100.1回を投げ12セーブだった(登板回数と投球回数の関係が、救援投手の役割が現在とは全く異なる当時の状況を反映している)。

また、3人の若手レギュラークラスが一気にブレイクしている。

まずはエイジーだ。レギュラー3年目の68年は打率.217、5本塁打、17打点だったが、69年は.271、26本、76点だ。

ジョーンズも忘れてはならない。

打率、本塁打、打点は、レギュラー3年目の前年も.297、14、55と立派な成績だが、69年は.340、12、75だ。

そして、何と言ってもトム・シーバーだ。

デビューの67年に新人王を獲得し、68年も16勝13敗、防御率2.20だったが、69年は25勝7敗、2.21でサイ・ヤング賞を受賞している。

当時は存在しなかったセイバー指標のWARでは、69年の7.2に対し、68年も6.8と決して見劣りしない。投球内容は、もともと「サイ・ヤング賞級」だったのだ。