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共産党がヒラ党員を除名処分にした本当の理由

田中良紹ジャーナリスト

フーテン老人世直し録(690)

如月某日

 日本共産党が党首公選制を訴えた京都府の一党員松竹伸泰氏を除名処分にしたことが波紋を広げている。除名処分は共産党の中で最も重い処分だが、その理由とされたのが分派活動である。

 何が分派活動とされたのか。松竹氏は先月『シン・日本共産党宣言』(文春新書)を出版し、共産党に党首公選制の導入を提案、ヒラ党員である自分が志位委員長に対抗して立候補すると宣言した。共産党は党内で主張せず外部から攻撃し、党内に同調を呼びかけたことを「民主集中制」の原則に背く分派活動だとして除名処分にした。

 共産党では中央委員会委員長が党首である。2,3年に一度行われる党大会で、各都道府県委員会から選ばれた代議員約1千人が投票して約2百人の中央委員が選ばれる。その中央委員から委員長以下の主要幹部が決定される。

 そのやり方で志位委員長は2000年から共産党党首を続けてきた。松竹氏はそれでは党内の異論を可視化することができないとして、他の政党のように複数候補が立候補し、党員や党所属の国会議員が投票する党首公選制を主張した。

 しかしこれは表の話である。本当の話は共産党の「非武装・中立路線」を巡る対立が根底にある。松竹氏は「非武装・中立路線」が野党共闘を妨げる原因だとして、「核抜き・専守防衛論」を主張し、「非武装・中立路線」の志位委員長と対立した。それが党首公選を巡る対立として表に現れ、除名という重い処分に至った。

 フーテンは松竹氏の安全保障に関する著書を読んだことがあり、在日米軍基地や日米地位協定に関する認識で共通するが、氏の主張である「核抜き・専守防衛論」、つまり日米安保を認めるが被爆国である日本は米国の核に頼らず、通常兵器で敵を攻撃してもらい、自衛隊は専守防衛に徹するという考えには疑問を感じた。

 共産党が除名処分を行った2月6日、松竹氏は日本記者クラブで会見を行い、除名処分に反論する一方で、共産党の安全保障政策を巡る方針の変遷に言及した。それを聞いてフーテンは頭の整理ができた。

 松竹氏は父親が長崎の炭鉱労働者で、共産党員として後に小説家となる井上光晴氏らと共に活動していたという。松竹氏は一橋大学の学生時代に全学連委員長となり共産党活動に従事するが、同じ時期に志位委員長は東大で共産党活動を行っており、2人は1歳違いの同世代である。

 松竹氏によれば、70年代の共産党の安全保障政策は、侵略に対しては自衛戦争を行うという「中立自衛」で、社会党の「非武装・中立論」と対立していた。特に東大では現行憲法は理想的であると同時に反動的であると学生党員に教えていたという。

 つまり東大では現行憲法には日本を米国の支配下に置こうとする側面があり反動的だとして、憲法改正を教えていたというのである。松竹氏がその話をしたのは、志位委員長が学生時代にその教育を受けていたと言いたかったのだと思う。

 志位委員長は学生時代に宮本顕治中央委員会議長の長男の家庭教師を務めた。1985年の党大会で東大の大学院生が「党勢を立て直す」という理由で、長く党首の座にあった宮本議長の辞任を要求すると、党の青年学生対策委員長だった志位氏はその学生を分派活動を理由に除名し共産党から追放した。

 その働きによって志位氏は宮本議長から抜擢され、出世コースを歩み35歳の若さで党書記局長に就任する。そして自民党が野党に転落し細川政権が誕生した93年の総選挙で衆議院議員に初当選した。

 一方の松竹氏は労働運動家であった金子満広衆議院議員の秘書を務めていたが、その選挙で金子氏が落選し、金子氏の議員会館の部屋に志位氏が入ることになり、しばらく一緒にいたという。その頃、志位氏が社会党の主張である「非武装・中立論」を共産党の主張にしようと宮本議長の秘書と話し合っているのを聞いたと会見で述べた。

 そもそも「非武装・中立論」は、日本を支配するためGHQのマッカーサー最高司令官が主張し、それに吉田茂総理が追随した。歴史書にはそう書いてあり、だから憲法が制定された46年の国会で、自衛の軍隊を持たないと主張する吉田総理と自衛の軍隊を持つべきだと主張する共産党の野坂参三氏は激論を交わした。

 松竹氏が共産党に入党した頃の共産党の方針は「中立自衛」だった。つまり共産党は9条を改正して軍隊を持つべきと考えていた。一方フーテンの見方では、学者やメディアが吉田総理の主張する非武装の理想を国民に説き、社会党も「非武装・中立論」を主張するようになると、自民党は社会党に政権交代より護憲に力を入れさせた。

 社会党は過半数を超える候補者を立候補させず、憲法改正させない3分の1の議席を目指す一方、自民党も3分の2以上の議席を奪わないようにした。それが中選挙区制では可能だった。

 そして米国には国民の大多数が護憲だから、自民党政権に軍事要求を強めれば政権交代が起きて親ソ政権ができると思わせた。それが米国の軍事要求をかわして経済に力を入れた自民党主流派の「軽武装・経済重視路線」だった。

 日本に政権交代が起きなかったのはそのためだ。フーテンは政治記者となってそのカラクリを知った。しかしカラクリを知らない記者は「自民党と社会党は激突している」と記事に書く。カラクリを知っている記者は自民党と社会党が水面下で手を握っていることを知りながら書かない。

 日本政治の最大のタブーだったとフーテンは思う。フーテンも組織に所属している間は書くことも言うこともできなかった。ただ言い訳になるがフーテンは「与野党が激突している」というウソだけは書かなかった。

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ジャーナリスト

1969年TBS入社。ドキュメンタリー・ディレクターや放送記者としてロッキード事件、田中角栄、日米摩擦などを取材。90年 米国の政治専門テレビC-SPANの配給権を取得。日本に米議会情報を紹介しながら国会の映像公開を提案。98年CS放送で「国会TV」を開局。07年退職し現在はブログ執筆と政治塾を主宰■オンライン「田中塾」の次回日時:5月26日(日)午後3時から4時半まで。パソコンかスマホでご覧いただけます。世界と日本の政治の動きを講義し、皆様からの質問を受け付けます。参加ご希望の方は https://bit.ly/2WUhRgg までお申し込みください。

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