フーテン老人世直し録(647)

皐月某日

 沖縄本土復帰50年の節目の日に、日本政府と沖縄県は共同で記念式典を開催したが、50年前の復帰の日に感じられたお祝いムードではなく、複雑な思いが交錯する式典だとフーテンは感じた。

 50年前の沖縄には「平和憲法を持つ基地の少ない日本への復帰」という思いがあったと思う。しかしそれから50年の歴史は、沖縄が今も米軍基地の島であり続けているように、日本が米国の軍事戦略から抜け出ることのできない国である現実を突きつける。平和憲法を持つ国に復帰しても、いやそれだから米軍基地はなくならない。

 沖縄は太平洋戦争最後の激戦地である。日本軍は連合軍による日本本土攻撃の時間稼ぎのため、連合軍を内陸部に誘い込んで持久戦に持ち込む作戦を取った。そのため戦死者数は民間人も含めて20万人に上ると言われ、その半数は沖縄の民間人だった。

 敗戦後、GHQの占領体制が続いた日本は、1952年にサンフランシスコ講和条約で独立を果たすが、この時米国は「対ソ戦略」の必要性から沖縄を切り離し、米軍の統治下において基地建設を加速した。それは「銃剣とブルドーザー」と言われる強制的な土地接収のやり方だった。

 そして占領支配から脱した日本には米軍基地に対する反対闘争が起こる。すると米国はそれが反米闘争になることを恐れ、日本本土の米軍基地を米国の施政権下にある沖縄に移したのである。

 こうしたことから沖縄には平和憲法を持つ日本への復帰の願いが生まれた。佐藤栄作元総理は「沖縄返還がなければ日本の戦後は終わらない」と言って「沖縄返還」に並々ならぬ熱意を示し、それを政権の最重要課題とした。しかしそれは米国の軍事戦略の前に極めて困難な作業だった。

 この時、公式の外交ルートとは別に、佐藤の「密使」として米側との交渉に当たったのが国際政治学者の若泉敬である。ベトナム戦争の出撃拠点であった沖縄には核兵器が常備されており、沖縄の世論は「核抜き本土並み返還」であったから、若泉は「核抜き返還」にこだわる。

 そもそも佐藤栄作は1964年に中国が核保有国になった時、日本も核武装すべきと考え核保有に取り組むが、しかし米国から説得されてそれを諦め、米国の核に頼る道を選択した。そして1967年に「非核三原則」、すなわち核を「持たず、作らず、持ち込ませず」を日本の国是であると表明した。

 従って沖縄返還も「核抜き」であることが絶対条件となる。若泉の著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を読むと、米国は米軍が日本に核を持ち込むことをあきらめず、緊急時には「事前通告」で持ち込むことを日本に認めさせようとした。それを若泉は「事前協議」に変えさせて了解を取り付け、1972年の沖縄返還が決まった。

 しかしこの時、ニクソンと佐藤は2人きりで小部屋に入り、覚書を交わしたことが本に書かれてある。つまり密約を交わし、表向きは「核抜き」だが、米軍が核を持ち込む可能性はあり、それを誰にも分からないようにしたのである。

 またニクソンは沖縄返還の前提として、自分の大統領選挙を有利にするため、日本の繊維製品の米国向け輸出を禁止するよう迫ってくる。理不尽な要求なので歴代通産大臣はこの要求を受け入れることができなかった。

 ところが田中角栄が通産大臣に就任すると、紡績会社から紡績機械を国が買い上げ、その資金で紡績会社を転業させるという大胆な手法で問題を解決する。「糸で縄を買った」と言われたのはそのためで、こうして沖縄返還は実現した。

 しかし若泉は米側との交渉で「核抜き」にこだわったため、米国の外交術に乗せられ、沖縄が永久に米軍の基地であり続けることを許してしまったのではないかとの思いに悩まされる。そのため沖縄戦が終わった6月23日の慰霊の日には、必ず沖縄に赴き戦没者の碑の前で祈りをささげることを習わしにした。

 その若泉の目に高度経済成長に浮かれる日本の姿は「愚者の楽園」に映る。米国の抑止力に頼り切り、日米同盟の名のもとに米国に従属するだけで、自立することを考えなくなった日本人に未来はない。

 若泉にとって「沖縄返還」は、本来は日本が米国の占領体制から脱却し、独立国家として独自の防衛戦略、独自の安全保障戦略を構築し、核密約と沖縄の基地の解消を目指さなければならないものだった。それが現実には逆になった。

 そこで若泉は1994年に『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を執筆し、自分が沖縄返還交渉の密使であったことを明らかにする。そして「核密約」についても暴露した。若泉がやってはならないことをやったのは、それだけ日本の未来に危機感を抱いていたためだと思う。

 そして本を出版すれば政治家もメディアも騒然となり、日米同盟の実態とあるべき日本の安全保障を巡る議論が巻き起こると若泉は考えた。ところが何も起こらなかった。国会もメディアも無視して沈黙する。若泉が考えた通り日本は「愚者の楽園」そのものだった。

 若泉は『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』上梓後、当時の太田昌秀沖縄県知事に「歴史に対する重い結果責任を取る」という遺書を送り、沖縄戦没者慰霊碑の前で自殺しようとしたが周囲に止められた。そして1996年に『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の英訳版の完成原稿を編集者に渡した後に自宅で服毒自殺した。

 若泉の考える日本の安全保障戦略は、日米安保条約を日米平和友好条約に変えることである。日米安保条約で日米は対等の立場になれない。日本は憲法9条2項で戦力も持てないし、交戦権も認められていないから、米国に守ってもらうしかない。それでは対等になるはずがない。

 日本は戦力を持ち、交戦権も持つが、どの国とも戦争をしないように平和友好条約を結ぶ。そして他国は侵略しないが自国に攻撃があれば戦う。その体制が取れれば、米国の核抑止力に頼る必要もなく、沖縄の米軍基地もなくすことができる。