フーテン老人世直し録(628)

睦月某日

 海部俊樹元内閣総理大臣が91歳で亡くなられた。死去の報に接してフーテンはどうしても1990年8月2日に勃発した湾岸危機を思い出さざるを得ない。世界中の議会が夏休みの時に、イラクのサダム・フセイン大統領が突然隣国クウェートに軍を侵攻させ併合した。

 米ソ冷戦終結後に起きた最初の侵略行為である。国連安全保障理事会は米国とソ連が初めて一致して武力行使容認を決議し、米国を中心とする多国籍軍が結成された。つまり第一次世界大戦の反省から生まれた1928年の「不戦条約」に従って、侵略に対しては国際社会が結束してそれをやめさせる機会が訪れた。

 ところが日本の海部総理は平和憲法を理由に自衛隊を派遣せず、代わりに日本円で1兆円を超す巨額の資金協力を行った。その結果、国際社会からは「小切手外交」と馬鹿にされ、日本は厳しい批判を浴びた。

 あそこが戦後日本の分岐点だったとフーテンは思う。あそこまでの日本は平和憲法を護ることで経済成長し発展することができた。しかしあそこからは平和憲法を護ることが日本の足を引っ張るようになる。特にその年の12月にソ連邦が消滅したことでそれは決定的になった。

 その理由をフーテンの経験に基づいて述べる。海部内閣は湾岸危機が勃発するおよそ1年前の8月10日に誕生した。その認証式が皇居で行われている頃、フーテンは自民党の政治改革推進本部・国会改革委員会に参考人として呼ばれていた。日頃から国会審議を中継する専門テレビの必要性を訴えていたからだ。

 その前年に起きたリクルート事件で国民の政治不信は頂点に達しており、政治改革は政治が取り組まなければならない最優先課題だった。リクルート事件で退陣を余儀なくされた竹下登は自民党に政治改革推進本部を設置し、宮沢派の伊東正義を本部長、竹下派の後藤田正晴を本部長代理に指名、政治倫理委員会、国会改革委員会、党改革委員会、選挙制度・政治資金委員会の4つの委員会を作った。

 フーテンはその中の国会改革委員会で、10年前に米国のケーブルテレビに登場した議会中継専門テレビ局C-SPAN(シー・スパン)について説明した。1970年代半ば、ベトナム戦争の敗北とニクソン大統領のウォーターゲート事件で政治不信が高まった米国では、政治不信を解消する方法として「透明性」が最も必要だと考えられた。

 そこから情報公開法の制定や資産公開制度が作られていくが、それまでテレビ中継が禁止されてきた議会審議も公開することになった。しかしテレビを意識して議員たちが大衆迎合に陥るのは困る。そこでポピュリズムを生まないことを条件に、審議をありのままに中継する民間経営のテレビチャンネルがケーブルテレビにできた。それがC-SPANである。

 放送開始から10年経ってポピュリズムを生まないことが分かると、英国にもC-SPANを真似た議会中継専門テレビを作る動きが出てきたことをフーテンは説明した。出席者の中から賛同する意見が出て、自民党の政治改革大綱に「国会テレビの導入」が重点項目として盛り込まれた。

 フーテンはC-SPANを更に知ってもらうため、C-SPANの日本での配給権を取得し、米国議会の審議を映像情報で日本に紹介する仕事を始めた。C-SPANと同じビルに事務所を構え、日米を往復しながら米議会の議論を素材にしてテレビ番組を制作したり、ビデオで販売したりした。

 そこに湾岸危機が起きた。米国議会は夏休みだったが、8月末にはこの問題を巡る議論が始まる。各国の議会も夏休み明けにはこの問題で議論が始まった。ところが日本だけは国会を開かなかった。国会が開かれたのは1兆円を超す支援金の額が決まった後の10月だった。

 外務省の北米一課長はフーテンに「国会を開いたら憲法9条を巡る神学論争になってしまう」と言った。憲法9条には戦力不保持と交戦権の否定が書かれているが、日本には専守防衛の陸海空自衛隊が存在する。自衛隊を憲法違反とする議論もあり、国会を開けば議論の先行きが収集つかなくなると言うのだ。

 しかし憲法9条の「戦争放棄」は1928年の「不戦条約」を下敷きにしたものだ。その「不戦条約」に従って国際社会が結束して侵略をやめさせる機会が訪れたのに、「不戦条約」を下敷きにした憲法9条によってそれに参加できないとはどういうことかとフーテンは思った。

 米国議会では9月からこの戦争を認めるかどうかの議論が始まる。歴代の国防長官や国務長官に加え、軍関係者や中東問題の専門家、また著名な経済学者であるガルブレイズ教授など200名ほどの有識者が議員たちと意見を交わす公聴会が延々開催された。その議論を国民もC-SPANを通して見ることができる。

 こうして11月に入り採決を行う日の議会には緊張感が漂った。1日がかりで全議員が一人ずつ武力行使に賛成するかどうか意見表明を行うが、それを有権者がどう評価するかで、次の選挙の当落が左右される。議員たちはいわば首を賭して採決に臨むのだ。

 戦前の日本は軍部が独走して戦争に突入したと聞かされてきたフーテンにとって、議会で公開の議論の結果、戦争突入が決まる民主主義の仕組みはとても興味深かった。そして軍隊が大統領ではなく国民の代表が集う議会の下に置かれていることが良く分かった。

 戦争が始まると湾岸戦争に出征する兵士のいる家には黄色いリボンが飾られた。自衛隊の不参加が報道されたことで、黄色いリボンを飾ることのできない在米の日本人はみな肩身の狭い思いをした。しかしワシントンで乗ったタクシーの黒人運転手は「日本には平和憲法があっていいね」とフーテンに言った。

 だが別の米国人はフーテンに「日本は経済大国だ。日本経済の命綱は中東の石油である。その中東で戦争が起きようとしているのに、日本は国会を開かず、国民に議論もさせず、ひたすら米国に資金提供をしてきた。やがて日本は我々と対等になるかと思ったが、それは間違いだった。日本はやはり二流国家だ」と言った。