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石井慧「死にかけました」──忘れられた金メダリストが語る激動の1年

近藤隆夫スポーツジャーナリスト
クロアチアで暮らし、ファイターとしての活動を続ける石井慧(撮影:倉増崇史)

石井慧が柔道・男子100キロ超級で金メダルを獲得したのは、2008年の北京五輪。あれから13年が経つ。翌09年大晦日に総合格闘家としてプロデビュー、これまでに国内外で40戦以上を闘ってきた。

国籍を変え現在はクロアチアで暮らす彼は、日本をどう感じているのか?  東京五輪をどう見たのか?  12月に35歳を迎える格闘家として目指すゴールとは?  忘れられた金メダリストが、自らの「現在・未来」を語る。

1年前に死にかけました

──昨年秋に新型コロナウイルスに感染されたそうですね。

石井 昨年10月に感染しました。コロナは3日間しんどかっただけで大したことはなかったのですが、同時に蜂窩織炎(ほうかしきえん)を患ったんです。こっちの方で死にかけました。

──蜂窩織炎は、皮膚とその下の組織に細菌が感染し炎症が起こる病気ですよね。

石井 そうです。その細菌は「マット菌」とも呼ばれています。柔術のマットとか、そういった所にもひそんでいて免疫力が落ちた時に、ちょっとした傷口から体内に入ってくるんです。足から入り、それが徐々にカラダの上の方まであがってきて死に至ることもあるんですよ。

──どんな症状が最初に出たのですか?

石井 まず、左足の太ももに水ぶくれがバーッとできたんです。それがどんどん膨れ上がってきました。もう、コロナどころじゃなかったんですよ。コロナ患者が行ける病院へ行って、薬を飲んで、注射も打ってもらいましたが効きませんでした。それで、手術を受けることになったんです。

──大変でしたね。

石井 はい。でも手術自体は炎症が生じている部分を削るだけなので入院の必要もなかったんです。ただ、その後が大変でした。

毎日、病院に行って「膿出し」をしなきゃいけないんですよ。肉がえぐれている部分に医者が指を突っ込んで膿を出してくれるんですが、それが痛いんです。完治するまで2週間くらいと言われましたが、なかなか傷口がふさがらず元に戻るまで1カ月半かかりました。だからずっと、消毒をして包帯を巻いて練習していました。

──えっ、その間も練習していたのですか?

石井 練習は、仕事なのでやらないといけないので。大変でしたけど。

──ところで、コロナのワクチン接種はしていましたか?

石井 していません。僕はどうしてもやらないといけなくなるまで「しない派」なので。

(撮影:倉増崇史)
(撮影:倉増崇史)

クロアチア暮らしで感じる日本の「同調圧力」

──2017年からはクロアチアを拠点に生活されていますね。日本と比較していかがですか。

石井 楽ですね。空気感が違います。クロアチアは言いたいことが言えますし、日本ならではの煩わしい同調圧力もありませんから。

──同調圧力というのは、みんなと同じようにしないと変に思われる雰囲気ですよね。

石井 そうですね。クロアチアの生活では、それを感じません。日本では、「何でそんなことをやらなきゃいけないんだろう」と思うことがよくありました。自分は同調しないので、それを主張すると周囲から煙たがられるんですね。もちろん生まれ育った日本が嫌いなわけじゃないですけど、みんなに同調しないといけない雰囲気が僕には合わなかったです。

──アメリカで生活していたこともありましたね。

石井 アメリカだけじゃなくて、いろいろな国へ行きました。国ごとに文化は違います。ただ、日本と他の国で生活する上での違いは、同調圧力があるかないかも違いの一つだと感じましたね。

──では、クロアチアの良い部分は?

石井 人が優しいです。道を尋ねたり助けを求めたりした時に親身になってくれます。お客さんが家に来た時の「おもてなし精神」にも感銘を受けました。

これは、アメリカとも違うんです。アメリカは、お金を渡さないと何もしてくれないじゃないですか。資本主義の最たる国だから仕方ないんですけど(笑)。

──いま、クロアチアで暮らす中で、コロナ禍の日本を見てどう感じましたか?

石井 民主主義ですよね、だから、コロナ禍でも自由に動けます。「隔離」じゃなくて「自主隔離」なんです。それが、良いところでも、ハッキリしないところでもあり、それが日本なのでしょう。

ただ、民主主義による国家の弱さも感じます。国のリーダーが、「こうだ!」と言って一気に物事を動かすこともできません。だからロックダウンもできなかった。

あんなことをしたら斉藤先生に殺されますよ

──今年開催された東京五輪についても聞かせてください。石井選手は、開催しない方がいいと夏前に話していましたね。

石井 はい。まあ、どちらでもいいんですけど国のリーダーが、さっさと決めればいいのにとはずっと思っていました。そうすれば、(テレビの)ワイドショーのあの無駄な時間がいらないじゃないですか、毎日同じネタの(笑)。無意味でしたよ。

──開催しない方がいい、そう思われた理由は?

石井 個人的な思いです。開催しなければ、柔道で誰も金メダルを獲れないじゃないですか。僕が最重量級の最後の金メダリストとして、記録が残りますから。

2008年の北京五輪・柔道男子100キロ超級で金メダルを獲得した石井慧、当時21歳。以降、最重量級での日本人金メダリストは誕生していない(写真:ロイター/アフロ)
2008年の北京五輪・柔道男子100キロ超級で金メダルを獲得した石井慧、当時21歳。以降、最重量級での日本人金メダリストは誕生していない(写真:ロイター/アフロ)

──五輪は観られましたか?

石井 ほとんど観ていません。ただ、(新聞等のメディアから)コメントを求められることがあったので、その部分だけは観ました。

(柔道・男子)60キロ級の試合で(日本人選手が)相手の手を引っ張って自分の足にわざと触らせていました。相手の足を触ったら反則じゃないですか。それも駆け引きと見る人もいるかもしれませんが、もし僕がそんなことをやったら、斉藤(仁)先生に殺されていましたよ。

日本人は、五輪が好きですよね。それもバラエティ番組とのコラボみたいな感じになっています。クロアチアは試合中心で放送の仕方が違います。日本は、大切な部分を放送で伝え切れていないように思いました。

K-1のリングで闘いたいと思った理由

──9月には、K-1に初参戦されました。なぜキックボクシングに挑んだのですか?

石井 純粋にK-1の舞台で自分を試してみたかったんです。今年に入って日本に戻ってきた時に、K-1出身の知り合いに「僕、K-1に出られないですかねぇ」と相談したら、話が進みました。

僕は格闘家ですから、K-1ファイターに転向するわけではありません。K-1で試合をしたのは、打撃のスキルを上げるのが目的です。その先には、打撃で日本最強の元K-1ヘビー級王者の京太郎選手とやってみたい。

僕は、グラップリング(組み技格闘技)の試合に出始めてから、MMA(総合格闘技)でも決めて勝つことが増えました。打撃も同じように考えて今回、K-1に挑みました。実践を経験しないと本当の意味で身につきませんから。

──12月4日のK-1大阪大会への出場も決定しました。

石井 地元の大阪ということで気合が入っています。一つに全てを注ぎ込んで勝ちたいと思います。毎日を大切に過ごし、昨日の自分を超えていきたいです。

9月20日・横浜アリーナでK-1に初参戦した石井慧は愛鷹亮と対戦、延長の末に3-0の判定勝利を収めた。(写真:日刊スポーツ/アフロ)
9月20日・横浜アリーナでK-1に初参戦した石井慧は愛鷹亮と対戦、延長の末に3-0の判定勝利を収めた。(写真:日刊スポーツ/アフロ)

ゴールは最強になること

──石井選手が総合格闘家に転向されて12年が経ちました。転向当初は、25歳までに世界チャンピオンになると宣言されていました。

石井 その計画は、格闘技をまったく知らない状態で立てたものでした。だから、やっぱり変わりますよね。イメージしていたのと、中に入ってからは違いました。

──12月に35歳を迎えます。今後の格闘技生活を、どのようにイメージしていますか?

石井 いただいた試合のオファーを、ひとつひとつ一生懸命に取り組んでいきたいです。そうすることで自ずと道が開けるんじゃないかと。人生は、良い時もあれば悪い時もあります。

僕にとってファイトは仕事です。目の前の仕事を一生懸命やるだけです。

──その先に見据えるのは?

石井 ゴールは、一番強くなることです。団体に関係なく(米国のメディアで)定められているランキングがあるじゃないですか。そこで1位になるのが当面の目標です。

格闘技をやめた後のことは考えてませんし、考える必要もないです。この先も自分のやりたいようにやって悔いのない人生にしたいと思っています。

──最後に、一つ聞かせてください。

「オリンピックのプレッシャーなんて、斉藤先生のプレッシャーに比べれば屁の突っ張りにもなりません」と、金メダルを獲得した直後に言われました。

これは、「斉藤先生からの」という意味ですか。それとも、「斉藤先生が、1988年のソウル五輪で感じていたプレッシャーに比べれば大したことはない」という意味ですか?

石井 「からの」です。斉藤先生が、ソウル五輪で感じていたプレッシャーなんて僕は知りませんよ(笑)。もちろん当時もいまも斉藤先生には感謝しています。

(撮影:倉増崇史)
(撮影:倉増崇史)

■石井慧(いしい・さとし)

1986年12月19日生まれ、大阪府茨木市出身。2008年北京オリンピック柔道男子100キロ超級の金メダリスト。2009年12月31日に吉田秀彦戦で総合格闘家としてデビュー。その後、国内外の格闘技団体に参戦。2017年からは練習拠点をクロアチアに移す。2019年にクロアチア国籍を取得。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

スポーツジャーナリスト

1967年1月26日生まれ、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から『週刊ゴング』誌の記者となり、その後『ゴング格闘技』編集長を務める。タイ、インドなどアジア諸国を放浪、米国生活を経てスポーツジャーナリストとして独立。プロスポーツから学校体育の現場まで幅広く取材・執筆活動を展開、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している。『グレイシー一族の真実』(文藝春秋)、『プロレスが死んだ日。』(集英社インターナショナル)、『情熱のサイドスロー~小林繁物語~』(竹書房)、『伝説のオリンピックランナー”いだてん”金栗四三』、『柔道の父、体育の父  嘉納治五郎』(ともに汐文社)ほか著書多数。

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