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シリア:世論調査に見る人民の生活水準の劇的低下

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

中東世論調査(シリアの農業と食料安全保障2020-2021)の結果が公開された。この調査は、2016年2017年2018年(国内避難民が対象)に行われたシリア国内での世論調査に連なるもので、筆者を含む質問票の設計者たちの関心事項について継続的に調査を行う一方、時々の重点事項についての調査を実施してきた。継続的な調査項目では、調査対象の生活水準や越境移動の経験と意識、シリア紛争やシリアの復旧・復興に関する諸外国への評価(期待度)が主な項目である。一方、今般の調査では、シリア人民が食糧の確保でどのような状況にあるか、食糧供給の礎である農業の状況についてどのような意識を持っているかが重点項目となった。

 シリア人民の食生活や、農産物の収穫状況については、筆者もこれまで複数の駄文を公開してきたが、これは今般の世論調査の進行を意識したものである。(シリア:人民の食卓からとり肉と卵も消えるシリア:ピスタチオの収穫高はシリアの未来を映すシリア:柑橘類の収穫高も減少シリア:ダマスカスで大衆食材・料理が高騰シリア:オリーブ収穫高は昨年並みらしいが…)世論調査自体は農作物の収穫高について問うものではないが、シリア人民が肉などの食品を食べる頻度や、それらの食材を手に入れにくい理由について問う項目もあり、今後様々な形で分析が公表されるだろう。本稿では、先行する諸般の調査との比較を通じ、シリア人民の生活水準の推移に着目する。

 紛争そのものや、それに関連して諸外国が科した各種制裁、近隣諸国との往来の減少などにより、シリア人民の生活水準は著しく低下した。2016年に実施した調査(国内避難民(=IDPs)を含まない)では、調査対象のおよそ9割が月収200ドル以下と回答した。

2016年調査の際の月収についての回答のグラフ。(筆者作成)
2016年調査の際の月収についての回答のグラフ。(筆者作成)

その後、紛争の軍事的帰趨がはっきりしたり、「イスラーム国」が衰退したりするにしたがって戦闘が日常的に発生しない地域が拡大すると、人民の生活水準にもわずかながら改善の兆しが生じ、2017年調査(IDPsを含まない)では月収が200ドル以下と回答した者の割合がおよそ4分の3へと減少した。

2017年調査の際の月収についての回答のグラフ。(筆者作成)
2017年調査の際の月収についての回答のグラフ。(筆者作成)

その一方で、IDPsの生活水準の回復は、避難を経験していない者たちに比べて著しく遅れていた模様で、2018年にIDPsを対象に実施した世論調査によると、回答者の9割近くが月収200ドル以下と回答した。

2018年調査の際の月収についての回答のグラフ。(筆者作成)
2018年調査の際の月収についての回答のグラフ。(筆者作成)

 今般明らかになった最新の調査の結果によると、シリア人民の生活水準は2016年~2017年に見られた改善の兆しがまさに「ぶち壊し」になり、2016年よりも悪い状態に陥った。調査によると、月収が200ドルを超えると回答した者の割合は5%に満たない。その上、全体の約7割が、無収入か月収50ドル以下と回答する惨憺たる状況である。

 このような状況が生じた原因としては、アメリカが導入した「シーザー法」に基づく制裁措置により、シリアとの商取引に従事する第三国の事業者も制裁対象となったことによる経済の不振が考えられる。また、中国発の新型コロナウイルスの感染防止措置により、イラクやヨルダン、レバノンのような隣国との往来が停滞したことも重要な要因である。さらには、レバノンの経済状況が著しく悪化したことも、同国の金融機関に預金している者も多いシリア人民の生活水準の著しい低下と密接に関係している。なお、今般の調査で特筆すべき点は、調査対象(1500)のおよそ半数が国外での移民・難民生活や、国内での避難生活から「帰還」した者を含むという点である。ただし、避難生活の有無と月収とをクロス集計したところ、両者の関係は「独立である」との検定結果が出たため、シリア人民は避難生活の有無にかかわらず「あまねくすべて著しく困窮している」と考えられる。

2020年~2021年調査の際の月収についての回答のグラフ。(筆者作成)
2020年~2021年調査の際の月収についての回答のグラフ。(筆者作成)

 実は、今般の世論調査の質問票の作成は、「シーザー法」に基づく制裁の強化や中国発の新型コロナウイルスの蔓延よりも前の2019年中に着手した。また、質問票の作成にあたってはシリア側の調査実施機関がかなり特殊なものも含む質問項目の原案を提案してきた。要するに、シリア側の機関(とその背後にいるシリアの当局)は、ずっと前から人民の生活水準の悪化、特に食糧事情の悪化が生じることを予測しており、(実際に対策を講じるかはともかく)政策的な着想を得るために「食料安全保障」を今般の調査の重点項目として推してきたということだ。今般の調査結果に対しては、「制裁による被害を訴えるための独裁政権のプロパガンダである」との論評が出ることが予想されるが、このような反応は「権威主義体制下での選挙や世論調査の意義や結果の分析」についてのごく初歩的な知識すら欠いた反応であり、専門的な分析の場で考慮する価値はない。

 軍事的な衝突が小康状態となる中、シリア紛争は紛争の帰趨が意に沿うものにならない限りシリアの復旧・復興、そしてシリア人民の生活水準の改善を徹底的に妨害する、という「復興の武器化」の局面にある。紛争の全当事者が「復興の武器化」という態度で事態に臨んでいるため、シリア人民は現時点での政治的立場や居住地のいかんを問わずその「武器」によって痛めつけられていることになる。問題は、紛争への政治的立場でも、紛争当事者への感情的な好悪でもなく、紛争の展開からすっかり疎外されているシリア人民の状況をどのように理解し、改善のための手段を講じるかどうかだ。派手な戦闘の場面や、紛争被害を陳列するというひどい役割を押し付けられているシリア難民にだけ関心を持つという態度は、シリア紛争の観察や分析としては合格点に達していない、ということになる。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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