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【ホークスちょっと昔話】伝説の剛腕、山村路直が教えてくれた「諦めない」という心

田尻耕太郎スポーツライター
九州共立大学時代の山村投手(写真:川窪隆一/アフロスポーツ)

 ホークスにあった数々のドラマを当時の温度のままで振り返っていく。

 その名も、ホークスちょっと昔話。はじまり、はじまり~。

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入団1年目「右肘が吹っ飛んだ」

 2005年8月7日は、山村路直にとって一生忘れられない記念日となった。プロ5年目でやっと辿り着いた一軍のマウンド。栄光のドラフト1位でダイエーに入団し「FDH」のユニフォームでそれを叶えることはできなかったが、球団名がソフトバンクとなった最初の年に、ようやくプロ野球選手としてのスタートを切ることができたのだ。

 本当に長く、そして苦難の道のりだった。

 将来のエース、10年に一人の逸材といわれて九州共立大学から2001年にプロ入り。1年目の春季キャンプでのブルペン。誰もがとてつもない投球に驚いた。

 足を運んだ評論家諸氏も「格が違う」「今まででナンバーワン」「キャッチャーの後ろから見たけど、怖いと感じたのは初めてだった」と絶賛の辞を並べた。最速153キロの直球はキレもあったが、何よりズシリと重たかった。まるで鉛球を投げているような、そんな力強いボールだった。

 しかし、そのキャンプ中に大きなアクシデントに見舞われた。

「投げた瞬間、右肘から先が吹っ飛んで無くなったと思った」

 プロ野球界で肘の怪我は治ると言われるが、山村の場合は「原因不明」と言われてトンネルの出口を見つけ出すことがなかなか出来なかった。2002年には肋骨が神経を圧迫しているのではないかという疑いが見つかり、肋骨を一本除去する手術も行った。4年目までに4度の手術。その間に数え切れないほどの悔し涙を流してきた。

「年俸ゼロでも構いません」と訴え

 しかし、諦める気持ちはまったくなかった。「年俸はゼロでも構いません」と契約更改の席で訴えたこともあった。

「絶対に治るという自信はあったから。もしホークスからいらないと言われれば、他球団のテストを受けるという選択だってあったと思う。だけど、僕はこのチームが好きで自分で選んで入団した。

 なのに、まだ何も貢献していない。球団名もユニフォームも球場の名前も変わってしまったけど、ヤフードーム(当時・現PayPayドーム)のマウンドで投げる姿を見せたかったし、見せないといけないと思った」

 山村の手応えに偽りはなかった。2005年は3月の教育リーグ、そしてウエスタン・リーグで次々とマウンドに上がった。当初は登板のアナウンスだけでスタンドがざわめいた。雁の巣球場に熱心に足を運ぶファンはよく知っている。過去4年間でシーズンに3試合以上登板した年は一度もなかったのだ。ざわめきは「本当に大丈夫なのか?」という心配の表れだったが、山村は順調な投球を続けた。

 

待望の「2つ」の初登板

 そして同年の8月。

 二軍戦だったが、念願だったヤフードームのマウンドに立った。

 3日のサーパス戦、最終回(規定により6回制)の無死一塁から登板した。

「ものすごく緊張した」

 観客は数百人しかいないスタンド。一軍とは別世界だが、ずっと思い続けていた本拠地のマウンドはやはり特別だ。

「嬉しかった。それと歓声も温かくて。未だに『無理するなよー』って心配されますけどね(笑)」

 その試合後、朗報が飛び込んできた。初めての一軍昇格を告げられたのだ。

 迎えた7日、フルキャストスタジアム宮城。七夕祭りでにぎわう仙台の街に熱気に後押しされたように、この日の楽天打線は元気だった。ホークス側から見れば2対5とビハインドの展開で八回裏へ。

 王監督が主審に投手交代を告げる。山村が颯爽とマウンドへ向かった。プロ5年目で初めて一軍の公式記録に名前が刻まれた瞬間だ。

「ガンガン緊張していた。球場の雰囲気も独特で、ほとんどが楽天ファンでしょ。しかも押せ押せムード。そこに名前も知らないようなピッチャーが出てきたわけだから、もう大盛り上がりですよ(苦笑)。

 これだけのお客さんの前で投げることはほとんどなかったし、ましてや完全アウェーの雰囲気も初めて体験。だけど、その前にヤフードームで投げて緊張していたから、その分だけ少しはラクでした」

 ショートを守る川崎宗則が駆け寄ってきた。

「確か『大丈夫です。落ち着いていきましょう』って言われたと思う。メチャメチャ爽やかに! そりゃモテますわ(笑)。ま、その時はそんなことを考える余裕なんてありませんでしたけどね」

 最初の対戦バッターは、前の打席で本塁打を打っている4番・山崎武司。注目の初球は128キロのスライダーだった。

「僕はストレートばかり注目されるけど本当はスライダー投手だから」

 自分らしい投球を見せたかった。強打者を相手に堂々と投げ、2球目を打たせてサードゴロに打ち取った。三塁手のトニー・バティスタの送球が少し逸れてヒヤリとしたが、その間一髪のプレーに山村の表情が思わず緩んだ。

 続く高須洋介をセカンドゴロ、酒井忠晴に右前打を許すが益田大介を中飛に打ち取って3アウト。1回16球を投げて1安打無失点。最速は145キロだった。

本当の嬉し涙

 ベンチに戻る山村は、涙を我慢するように少し伏目がちで唇をグッと噛みしめていた。チームメイトの皆からハイタッチで祝福される。少しこわばった笑顔で手を合わせた。

 そして着替えのために一旦ロッカールームへ向かう。そのベンチ裏の通路で一人になった瞬間、もう我慢ができずに涙が溢れた。過去にも実戦に復帰して登板をした後には涙を流してきた。だけど、今回は意味が違う。それまでは本当は肘が痛いのに周りを騙して投げた自責の涙だった。本当の嬉し涙は、これが初めてだった。

 その後、2007年3月29日の楽天戦でプロ初勝利をマーク。同年は23試合に登板して2勝2敗1ホールド、防御率3.81の成績を収めた。だが、その翌年は一軍登板なしに終わると、ホークスから戦力外通告を受けて退団。海を渡ってメキシカン・リーグでもプレーをしたが、2009年限りで現役を引退した。

 数字だけを見れば、満足のいくプロ野球生活ではなかったかもしれない。しかし、どんな困難にだって何度も立ち向かい、決して諦めることなく一軍のマウンドに立った彼はいつもファンに夢を見させてくれた投手だった。

※「月刊ホークス」2005年10月号に寄稿したものを参照に執筆

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山村路直(やまむら・みちなお)

 1978年愛媛県生まれ。松山中央高校から九州共立大学を経て2000年ドラフト1位でダイエーに入団。同期2位の山田秋親とともに「YYコンビ」と呼ばれ、大いに期待をされた。引退後は理学療法士の資格をとり第2の人生を歩んでいる。

スポーツライター

1978年8月18日生まれ、熊本市出身。法政大学在学時に「スポーツ法政新聞」に所属しマスコミの世界を志す。卒業後、2年半のホークス球団誌編集者を経てフリーに。現在は「Number web」「文春野球」「NewsPicks」にて連載。ホークス球団公式サイトへの寄稿や、デイリースポーツ新聞社特約記者も務める。また、毎年1月には千賀(ソフトバンク)ら数多くのプロ野球選手をはじめソフトボールの上野由岐子投手が参加する「鴻江スポーツアカデミー」合宿の運営サポートをライフワークとしている。2020年は上野投手、菅野投手(巨人)、千賀投手が顔を揃えた。

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