Yahoo!ニュース

【ホークスちょっと昔話】新庄と同級生 「おやじビーム」を憶えているか

田尻耕太郎スポーツライター
西武とホークスで活躍した宮地克彦氏。高校時代の写真しか見つかりませんでした…(写真:岡沢克郎/アフロ)

 ホークスにあった数々のドラマを当時の温度のままで振り返っていく。

 その名も、ホークスちょっと昔話。はじまり、はじまり~。

【2005年5月・スポーツナビに寄稿したコラムに加筆修正したもの】

体も心も充実の16年目。宮地克彦の活躍の裏側

 福岡にやって来て2年目になる宮地克彦は、今、充実の時を感じている。

「プロに入って16年になりますが、今までで一番練習してますよ」

 宮地のトレーニングは家を出発するところから始まっている。多くのプロ野球選手が高級車で球場に乗りつける中、彼は自慢のマウンテンバイクで市中を走る。

「試合の帰りはドームの周りが渋滞するし、いいウォーミングアップになりますから」

 自慢の愛車だけでなく、家族さえも所沢に残してきた。

「家族には申し訳ないと思います。でも、僕が選手としてプレーできるのはあと何年か分からない。残りわずかの時間を野球だけに集中して、それだけに没頭していたかった。それを家族も分かってくれた。感謝しています」

 ドームに着くと、まず目の前の砂浜へ向かう。

「砂の上を走ると特に足首にいいんです。だけど結構しんどい(苦笑)」

 試合前の全体練習はこれから始まるというのにもう汗だくだ。かといって、チーム練習も手を抜くはずがない。大事な試合前なのに……と余計な心配を振り払うように、宮地は笑う。

「しんどいですけど、試合よりも練習の方がしんどいと思えるような練習をしておきたい。そうすればどんな場面でも『試合のほうがラクだな。楽しいな』って思えるじゃないですか」

 準備だけでなく、復習も欠かさない。試合が終わるとすぐにミラールームに駆け込む。だが、それはバットを振るためではない。メンタルトレーニングに時間を費やすのだ。

「集中力を研ぎ澄ます。これがテーマです。100パーセントの集中で打席に臨む。そのためにはオンとオフの切り替えが大切です。だから、集中するときは思い切り集中して、家に帰ったら野球のことは何も考えない。何をやるにしてもメリハリを持ってやるようにしています」。

 だけど…、「これが一番しんどい」

知人のひとことで考え方を変えた

 結果は確実に現れている。交流戦の打率は4割を越え、2年連続シーズン3割に視界良好だ。

 だけど、宮地は満足していない。

「昔の僕ならなんとか3割。悪くても2割8分とか1日1安打と、最低限の目標を掲げて頑張ってました。でも、ちょうど昨年の今ごろに考え方を変えるキッカケがあったんです。知人の方の紹介で格闘家の方と食事をする機会があって、そのときに『なんで1日1本なんだ? 2本だって3本だって打てばいいじゃないか。ホームランだって(シーズンに)20本だって30本だって打てばいい』って言われたんです。

 その人はあまり野球に詳しくない人でした。だって、少しでも知っている人なら僕がどういう選手か分かるでしょ。そんなの無理だって。でも、その席の勢いで『じゃあ、次の試合でそう思って打席に立ちます』って約束しました。そしたら次の試合で3安打。1本打ってもどん欲に次を狙った。その結果でした」

 昨年、プロ入りして初めて3割を超えたのも「そのおかげです」という。今年の春、宮地はシーズンの目標を聞かれて「首位打者です」と堂々と答えた。

 8月で34歳を迎える。強肩で走者を刺すと、翌日の紙面に“おやじビーム”などと書かれる年齢になった。

「僕、新庄(剛志=北海道日本ハム)と同い年なのに。あいつは『シン様』で僕は『おやじ』か(泣)」。

 いやいや、まだ老け込む年齢ではない。体と心の充実は若さの証拠。今日もシュアな打撃とおや…、いや“みや様ビーム”でファンを沸かせる。

※※※※※※※※※※

宮地克彦(みやじ・かつひこ)

 1971年大阪府出身。尽誠学園(香川)ではエースとして甲子園に出場し、89年夏ベスト4まで進出。同年ドラフト4位で西武ライオンズに入団した。4年目に外野手に転向。02年には3番打者を任されるなど100試合に出場してリーグ優勝に貢献したが、03年オフに西武から戦力外通告を受けて退団した。

 現役続行を目指して複数球団のテストを受けるも不合格。12球団トライアウト受験後も声がかからず、一旦はユニフォームを脱ぐ決意をして就職活動を始めた数日後に、村松有人がFAで去ったダイエーから声がかかりテスト入団を果たした。

 04年のシーズン途中からレギュラーとなり、93試合出場で打率.310を残した。上記の原稿当時の05年は125試合に出場して打率.311とともに初の規定打席をクリア。初のオールスター出場、初のベストナインにも輝き「リストラの星」と呼ばれた。

 07年にはBCリーグ・富山で選手兼任コーチ。引退後はソフトバンクと西武でコーチ、16年からはBCリーグ・栃木でヘッドコーチを務めた。そして2020年1月にエイジェック女子硬式野球部のヘッドコーチに就任した。

スポーツライター

1978年8月18日生まれ、熊本市出身。法政大学在学時に「スポーツ法政新聞」に所属しマスコミの世界を志す。卒業後、2年半のホークス球団誌編集者を経てフリーに。現在は「Number web」「文春野球」「NewsPicks」にて連載。ホークス球団公式サイトへの寄稿や、デイリースポーツ新聞社特約記者も務める。また、毎年1月には千賀(ソフトバンク)ら数多くのプロ野球選手をはじめソフトボールの上野由岐子投手が参加する「鴻江スポーツアカデミー」合宿の運営サポートをライフワークとしている。2020年は上野投手、菅野投手(巨人)、千賀投手が顔を揃えた。

田尻耕太郎の最近の記事